今回はF1史を振り返ると必ず通る技術、マシンである1977年ロータス「78」を選びます。コードネームは「John Player Special マークIII」渋くカッコいい漆黒のカラーリングに「グラウンド・エフェクトカー」の先駆けとなる名車の一つです。ロータスの形式番号は変わっていて西暦=番号ではありません。時代にもよりますが、一つか二つ、数字がズレているので間違えそうになります。

《設計》
コーリン・チャップマン
トニー・ラッド
ラルフ・ベラミー
ピーター・ライト

《外見》
ロータスは元々戦闘機を扱う空軍に属し航空宇宙工学に長けたチャップマンが戦後に自動車産業を立ち上げ、1958年からF1参戦を始めたいわばワークスチームです。市販車ではエリーゼやエスプリなどで有名ですよね。今では当たり前となったモノコックシャシーやエンジンとトランスミッションの関係性など、力学や航空技術をそのまま地を走る自動車に反映させ「航空力学の概念」を取り入れたハシりです。今でいうE・ニューウェイの大先輩みたいな方です。
ご存知の通り、翼は上下の流速差による気圧差で揚力を得ます。航空機の研究で苦労した経験から「翼を逆さまにすれば、地に張り付くマシンができるのでないか?」という発想からグラウンド・エフェクト(地面効果)が生まれました。マシン上面は路面と平行に、底面は前輪後方から後輪に向かい、路面と平行(近年の某チームは微妙に傾斜がかってますが)ではなく跳ね上がり、まさしく航空機の翼の逆の様になっています。そうする事で直進時だけではなくコーナリングでも地に張り付く力をウィングのみならず「マシン自身」から多大に得られることに成功します。また、マシン側面は少しでも空気が漏れないようゴム製のスカートを履いているため、最低地上高が低く見えます。さらに走行中に地上高が大きく変化しないようにサスペンションは他に比べて固めの仕様となっていることも特徴です。レースでの登場は1977年ですが、実は秘密裏に1976年には完成し、テスト走行を繰り返していました。
扁平なマシン以上に際立つ艶のある黒。そして金色のラインやロゴマークなど、幼い頃の「F1=マールボロ」としかみていなかった時に比べて、大人になればなるほどこの美しさ、フォルムが理解できるようになりました。F1をよく知らず「色だけで乗るマシンを決めていい」と言われたら、このカラーリングを選んでしまいそうです。メインスポンサーのジョン・プレイヤー・スペシャル、たまに街で売っているのを見かけますが、吸ったことがないので味は知りません。パッケージに負けないくらい美味しいのでしょうか?

《エンジン》
フォード・コスワースDFV
V型8気筒・バンク角90度
排気量:2,993cc(推定)
最高回転数:10,800rpm(推定)
最大馬力:659馬力(推定)
燃料・潤滑油:バルボリン

《シャシー》
全長:4,547mm
全幅:2,146mm
全高:914mm
最低車体重量: - kg
燃料タンク容量: - ℓ
タイヤ:グッドイヤー

《ドライバー》
No.5 マリオ・アンドレッティ(全戦)
No.6 グンナー・ニルソン(全戦)

《戦績》
62ポイント コンストラクター2位
(1位5回、2位1回、3位1回ほか)
ポールポジション6回
※戦績は1977年シーズンのもの

前年にあたる1976年のシーズン終盤で「77」による底面スカートのブラシ化は試していました。試走に試走を重ねていよいよ1977年シーズンから登場します。いくつかのリタイヤの後、ロングビーチで行われた第4戦アメリカ西GPで予選2番手から順位を落とすも終盤に逆転、アンドレッティの母国優勝で勢い付きます。翌スペインGPでポールポジションを獲得し優勝するなど、徐々にグラウンド・エフェクトカーの優位性を披露し、チャンピオン争いに名乗りを上げました。富士スピードウェイでの最終戦日本GPもポールポジションはアンドレッティによるこのマシンです。
結果的にはアンドレッティがシーズン最多勝4勝、ニルソンが1勝をあげるも、シャシーに追いつかない旧式のフォードDFVエンジンの信頼性不足やウィングとのバランス、オーバーステア気味のマシン特性が弱点となり、チャンピオンはフェラーリのラウダに決められてしまいました。
翌1978年も序盤はアンドレッティとニルソンから代わったピーターソンによって使用され、6戦で2勝4表彰台を獲得したことで、マシンとしての戦績は23戦で7勝を数えます(H・レバークによる個人参戦は除く)その後はウィングや燃料タンクの改良などを施した79がアンドレッティとロータス最後のチャンピオンにまで押し上げた一方、惜しくもピーターソンという逸材をイタリアGPのレース中に失う形となりました。

このシーズンはチャンピオンに返り咲いたラウダ、またティレルP34による6輪車。日本のオリンパスもスポンサーとなるロータスのチャンピオンマシン、79の方が印象強いかもしれません。ただ衝撃的なディテールや機構、他チームも目を見張り模倣するきっかけとなったのはこのマシンからです。G・ヴィルヌーブらによる死亡事故や挙動を乱した時の危険性も問題視され、奇しくも開発者のチャップマンが亡くなった1982年をもって、グラウンド・エフェクトカーが禁止されてしまいました。