F1 えきぞーすとのーと

よくあるニュースネタやこ難しいテクニカルな話ではなく、メインは予選や決勝のTV観戦したそのものを個人的観点から綴るF1ブログです。  また、懐かしのマシンやレースを振り返ったり、記録やデータからF1を分析。その他ミニカーやグッズ集めも好きなので、それらを絡めつつ広く深くアツくF1の面白さやすごさを発信し、楽しんでもらえたらいいなと思っています。

タグ:親子

夏休みにマグヌッセン親子、フェルスタッペン親子を比較してみました。その時「もしかしたら今シーズンが見納めとなりそうな親子が出そう」なんて書きましたが、現実になってしまいましたね。成績はともかく、個人的にはちょっぴり残念に思ってしまいました。ガレージでは息子よりパパの方が映っている時間や回数が多かった気がしないでもない、そんな親子について今回比較してみます。

ジョナサン・チャールズ・パーマー
1956年11月7日生まれ
83年~89年 88戦参戦
0勝 PP0回 FL1回 表彰台0回 入賞8回
   83年 ウィリアムズ   1回出走 予選25位 決勝13位
   84年 RAM              15回出走 予選21位 決勝8位
   85年 ザクスピード   8回出走 予選17位 決勝11位
   86年 ザクスピード 16回出走 予選16位 決勝8位
   87年 ティレル        16回出走 予選13位 決勝4位
   88年 ティレル        16回出走 予選10位 決勝5位
   89年 ティレル        16回出走 予選9位   決勝6位

父の方のJ・パーマー、ジョナサンは1980年代にF1をドライブしています。来週で61歳になります。参戦数は88レースとまあまあ多めではありますが、成績がすごく良かったわけではありません。ちょうど日本でフジテレビによるF1が始まった頃と重なり、また以前に書いた古舘伊知郎による「フライング・ドクター」なる呼ばれ方をしたために、古いF1ファンなら記憶にある方かと思います。自身もギリギリ名前を覚えているくらいで、すごく印象があるわけではありません。ジョナサンといえば、某ファミレスか陸上の三段跳びの世界チャンピオンであるジョナサン・エドワーズの方が先によぎります。
1981年はイギリスF3、1983年はヨーロッパF2にステップアップし、そこでチャンピオンを獲得して、ウィリアムズから第14戦ヨーロッパGPのスポット参戦をきっかけにF1の門を叩いています。1984年はRAM、85年のザクスピードでは完走すらままならない内容が続きますが、86年に一桁台フィニッシュがいくつかあり、87年にようやく名門のティレルのシートを得て、4位1回、5位2回と入賞にこぎつけるようになりました。晩年はティレルドライバーを3年続けるも、表彰台には一歩届かず、時折予選落ちなども経験して1989年を最後にF1を離れています。このあと出てくる息子ジョリオンは1991年生まれですから、父のF1ドライブ時代は知らないということになります。

その後は舞台をイギリスツーリングカー選手権に変え活躍して、解説者や「フォーミュラ・パーマー・アウディ」という名のジュニアフォーミュラを主催したり、イギリスGPの舞台にもなったブランズハッチサーキットを買収するなど、若手育成やビジネスとして現在に至ります。古舘伊知郎の話す「フライング・ドクター」とは、その名の通り、ドライバーの傍ら医師免許を取得した医師であったことに由来します。平日は医師、週末はドライバーをこなすという「2つの顔」を持つ方だったわけです。ビジネスに長け、医師にもなれる頭脳があると考えると、レースに勤しむことができる「育ちの良さ」だけではなく、頭もいい方なんだろうなということがわかります。余談ですが、二世ドライバーで昨シーズンにチャンピオンを獲得したN・ロズベルグも二世で育ちは当然いい中で、多ヶ国語を話せて大学では航空工学を専攻する秀才でしたよね。お金も頭も良くて、ルックスもいいとなれば、どこに欠点があるのか逆に探し出したくなる(笑)

ジョリオン・カーライル・パーマー
1991年1月20日生まれ
16年~17年 36戦参戦
0勝 PP0回 FL0回 表彰台0回 入賞2回
   16年 ルノー            21回出走 予選14位 決勝10位
   17年 ルノー            16回出走 予選10位 決勝6位

もう1人のJ・パーマー、息子のジョリオンの方です。医師の父と看護士の母との間に生まれました。ならばF1ドライバーよりよっぽど医系に進めばよかったのでは?!はナシで(笑)父の背中を見て育ったのでしょう。もちろんジョリオンも10代前半からカートに乗り出してはいますが、二世ドライバーの割には13歳となる2004年から本格的なデビューであると考えると、ちょっと遅い気もします。最近は0代前半(なんて表現をすると、語弊を招きそうですが)4歳や5歳からなんていうドライバーもいますもんね。学業優先だったかな。
2007年から、父の主催する「フォーミュラ・パーマー・アウディ」に参加していくこととなります。父親の名前のついた大会なんて、一般人からは想像つきませんね。2009年までの3年間でポールポジションや優勝もいくつか経験していますが、年間最上位は2008年の3位でした。うーん、物足りない。。2009年に父ジョナサンがウィリアムズと共同開発したシャシーがF2で採用されることが決まり、もちろんジョリオンも参戦、2010年シーズンは全18戦で5勝10表彰台をあげてランキング2位につけます。また2011年からは近年のF1への登竜門となっているGP2に参戦して3年目の2014年に第10代目のチャンピオンとなることで、フォース・インディアのテストドライバーの座を獲得、F1の世界にやってきました。

ロズベルグやハミルトン、ヒュルケンベルグもグロージャンもGP2チャンピオンであり、後輩にはバンドーンやガスリーといった若手が続いています。もちろん実力でチャンピオンとなってF1へ正常なステップアップしてきたには違いありませんが、過去を辿るとかなり「父の手助け」を借りるシーンが多いです。羨ましいことに、他人にはそうそうない恵まれた環境があるといえるし、悪くいえば強力なバックアップがあったからこそ、ここまでやってこれたともいえる。F1での戦績については、皆さんよく御存知な感じです。

親子でF1での戦績を対決させてみましょう。先日のマグ、フェル親子も数少ない表彰台があったのと時代が多少カブるので比較の甲斐がありますが、この親子は時代も離れていて優勝はおろか「表彰台」すらありませんから、かなり見応えがないかもしれません。それはmiyabikunのせいではありません(笑)寒色系が父ジョナサン、暖色系が息子ジョリオンです。いつものようにプロットから雰囲気だけを感覚的に見てみてください。
父ジョナサンは息子ジョリオンの2倍以上の参戦数ですから、寒色系がグラフ全体にプロットされます。ジョナサンの時代は予備予選まで行い、予選は26人に絞るところから始まりますので、参戦する分母がジョリオンの時代とは異なります。ジョリオンの時代は20〜22人が最大値ですもんね。こうしてみると、なんだ、ジョナサンの方が長く多く出ているけど、前から数えたら息子とそう変わらないじゃん!ともみて取れます。さっきの予選時の優劣を無視したら、パッと見らジョリオンの方が若干前に見えます。ただ、時代のカブらない2人を比較する決め手として「予選と決勝の差」をみてあげる必要があります。これは時代背景やレギュレーションの差も大いに関係してくることですが、ジョナサンの予選結果(水色丸)と決勝結果(紺四角)を見比べると、見辛いですが決勝は予選より当然ながらほとんど上の位置に来ていることがわかります。一方でジョリオンの予選(オレンジ丸)と決勝(赤四角)をみると、まあまあ近い位置に分布しています。ということは、ジョナサンは予選から「何らかの理由」(ライバルのリタイヤや自身のパッシング)のために決勝が上位となり、ジョリオンは予選と決勝の差があまりないことがわかります。これはパーマー親子に関わらず、最近のF1の風潮でもあるため、単にジョリオンがヘタクソとか抜けないとしてしまうのは可哀想ですが、このような違いが表れてきます。近年のF1は「壊れない」(壊れるときは壊れるが)「ぶつからない」「抜けない」というのが、戦績が近く、でも異なる時代での比較の場合は、まあまあわかりやすくなります。
あと、このグラフからわかりやすいまでに傾向として出ているのは、ジョナサンが後半のティレルに乗り出した頃から、予選、決勝とも成績が向上しています。年齢は重ねているのに成績が上がるということは、ドライバーの腕だけではない、マシンやチーム(コンストラクター)の良し悪しも、ドライバーの成績にかなり依存していることもわかりますね。2人の中での最上位は予選がジョナサンが記録した1989年の第7戦フランスGPの9番手、決勝が1987年の最終戦オーストラリアGPでの4位フィニッシュとなっています。息子は父を参戦数、予選、決勝、ファステストラップ数の全てで超えることができませんでした。

今回は比較対象が少ないので、それぞれのチームメイトと比較してみます。まずは父ジョナサンから。オレンジ、赤がジョナサン、水色と紺がチームメイトです。
父のチームメイトはK・ロズベルグ、アリオー、ロテンガッター、ストレイフ、ベイリー、アルボレート、アレジとなります。またグラフの下にずらずら並んでしまってるのが決勝リタイヤです。リタイヤが多いのは別として、チームメイト比較すると、予選、決勝ともそう負けているわけでもなさそうですね。予選は35対25でジョナサンの勝ち、決勝も28対16でジョナサンの勝ちとなっています。最終年は若いアレジに少しやられ気味でしょうか。このチームメイト対決で大敗しないというのは、少しでも長い期間F1をドライブするということにおいて、なかなか大切なことではあります。それはこの後のグラフが痛いほど分からせてくれます。

1年目の2016年はまあ、まあまあマグヌッセン と予選、決勝ともどっこいどっこいの争いでした。問題は今シーズン2017年です。チームメイトが大得意な予選もさることながら、決勝のトラブルやアクシデントを考慮しても皆さんご存知の通りの大敗です。セッティングや好みの違いはあれど、同じマシンに乗るわけですから、当然比較対象はチームメイトになってしまいます。今まではパパの力も使って何とか成績を残してきていたし、F1もパパの名が通るカテゴリーかもしれないけど、全世界の皆が目指す最高峰ですから「後ろ」がつかえています。 丸2年を待たずして判定を下されるのも可哀想ですが、仕方ありません。救いというべきか納得というべきか、後任が「実績もない新人」でなく「僕はまだまだ速く走れる」の経験者だったのは災難だったかもしれません。

もう父のいない私からしたら、ボンボンのドラ息子でも父と同じ道を選んで、毎戦楽しみにしてもらえるのは羨ましいし、ジョリオンも賢そうで真面目そうなナイスガイですから、父を越えられるよう1日でも長くF1をドライブして欲しかったなと思います。でも才能やタイミングはどうしようもない事実。もしかしたら、ジョリオンはF1よりフォーミュラEの方が合っている気がしないでもない。あちらには同様に父の後ろ姿を見て活躍の場を見出す「先輩」も何人かいるし、はたまた父と同様に「若手育成や経営面の活躍」の跡を継ぐかもしれない。今後の活躍に期待しています。
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小生意気なこの顔はどこのクソガキだ?オラんだ!(笑)
「ぐりとぐら」みたいな端的なタイトルです。この2人、時代もカブるし名前の雰囲気も似ていて、当時はよく間違えました。若いファンの方々は息子達は知っていても、実のところチャンピオンでも優勝経験もない親父さん達はよく知らないことと思います。F1も夏休みに入りましたので、ココはゆるりとあまりフィーチャーされることも無かろういつもガレージで「ドヤ顔」しているフェルスタッペンの父ヨスと逆にF1の舞台であまり姿を現さないマグヌッセンの父ヤンを特集してみます。
ちなみに、このブログではドライバー名を概ね一貫してファミリーネーム(名字)で呼んでいますが、今回はさすがに例外としてファーストネーム(名前)を使用します。でないと分からなくなっちゃいますもんね。

ヤン・マグヌッセン 1973年7月4日生まれ
95年、97~98年 25戦参戦
0勝 PP0回 FL0回 表彰台0回 入賞1回
   95年 マクラーレン   1回出走 予選12位 決勝10位
   97年 スチュワート 17回出走 予選6位  決勝7位
   98年 スチュワート   7回出走 予選16位 決勝6位

ヤン・マグヌッセンはデンマーク国籍の現在44歳です。息子ケビンは今年25歳だから、ヤンが19歳の時に生まれた子ということになります。結構若くして父になりました。
ヤンは少年時代からカートに乗り、1987年の14歳で世界カート選手権のチャンピオンになっています。そこからイギリスF3にステップアップ、1994年にチャンピオンを獲得するとイギリスのマクラーレンからF1テストのチャンスを得ています。1995年はM・シューマッハ同様にメルセデスの養成プログラムからDTMに参戦していましたが、メルセデスを積みテストを経験しているマクラーレンから、病欠となったハッキネンに代わって第15戦パシフィックGPでF1デビューとなります。この時ケビンは3歳、ということは「F1デビューより父親デビューが先」ということですね。
F1フル参戦はデビュー戦から1シーズン空く1997年となります。ただし見初められたマクラーレンからではなく、J・スチュワートが立ち上げた「スチュワート・グランプリ」の初代ドライバーでした。1997年シーズンは全17戦参戦で12戦リタイヤ。そして当時は入賞にならなかったモナコGPでの7位が最高位でした。翌1998年も引き続きスチュワートから参戦し、第6戦カナダGPで初の6位入賞を果たすものの、ヨス・フェルスタッペンにシートを奪われてF1から離れる形となりました。ヤンとヨスのニアミスです(笑)
25歳にしてF1を離れたヤンはその後アメリカに渡ってレースをしています。昨年2016年もしっかり優勝を飾る「現役レーシングドライバー」です。

ヨス・フェルスタッペン 1972年3月4日生まれ
94年~98年、00年~01年、03年 102戦参戦
0勝 PP0回 FL0回 表彰台2回 入賞7回
   94年 ベネトン     10回出走 予選6位   決勝3位
   95年 シムテック    5回出走 予選14位 決勝12位
   96年 アロウズ      16回出走 予選7位   決勝6位
   97年 ティレル      17回出走 予選14位 決勝8位
   98年 スチュワート 9回出走 予選12位 決勝12位
   00年 アロウズ      17回出走 予選8位   決勝4位
   01年 アロウズ      17回出走 予選15位 決勝6位
   03年 ミナルディ  16回出走 予選15位 決勝9位

ヨス・フェルスタッペンはオランダ国籍の現在45歳。似たような名前の2人はヨスの方が1歳年上です。現役時代から思っていたのですが、ヨスってレーシングドライバーというよりかはロックミュージシャンや格闘家に見えてしまうのは私だけでしょうか?!レーシングスーツより革ジャン着てギター持ってる方が似合う気がする。
ヨスも幼少時代からモータースポーツに関わりを持ち、1993年からこちらはドイツF3に参戦しています。同世代のヤンがイギリスでヨスがドイツ、少し前のハッキネンとM・シューマッハの関係に近いものを感じます。ヨスはF1のフットワークのテストを経験して現役ドライバーを食う走りを披露、M・シューマッハや後のアロンソも看てきたフラビオ・ブリアトーレの目にとまり、1994年に早くもトップチームであるベネトンのテストドライバーを得ます。
F1デビュー戦はレギュラードライバーであったJ・J・レートがシーズン前テストの負傷で欠場となり、いきなり開幕戦ブラジルGPから本戦出場を果たしました。予選は2番手のM・シューマッハに対して9番手、決勝はリタイヤでした。
短命に終わったヤンに対してヨスはチームを替え浪人して比較的息の長いF1ドライバー人生を過ごしています。ベネトンから翌年はシムテック、ティレル(この頃にマックスが誕生)と毎年渡り歩き、1998年はヤンに代わってスチュワートのシートを得るも1999年に喪失。1年の浪人を経て2000年にアロウズ、そして2002年はまた浪人して2003年にミナルディをドライブしました。昨シーズンに息子のマックスがライコネンをブロックして初優勝した際にしたコメント「パパとも走っているドライバーに競り勝って優勝した」はこの末期時代の話です。スポットや浪人も含め100戦を越えてくると、このような現象も起きるんでしょうね。最高位は初年のベネトン代走時代の3位表彰台が2回。あとヨスといえば給油再開後のピット大火災1回は有名な話ですね。

2人のキャリアを折れ線グラフではなく、分布図で示してみました。丸が予選順位、四角が決勝順位で青や水色の寒色がヤン、赤やオレンジの暖色はヨスとだいぶ見辛いですが感覚として捉えてみてください。ヤンのキャリアは長くないのでグラフ中央に紛れています。ヨスの初年1994年の3位2回が燦然と輝き、あとは両者似たり寄ったりな結果です。この時代の参戦人数は26人と今より多く、入賞は6位まで(グラフ緑帯)なので今より入賞するのも激戦でした。グラフの下面27位にかたまってプロットされているのはリタイヤを示しています。両者とも下位チームに在籍したこともあって、リタイヤ率は少なくありません(裏を返せば、実力が下位チームに留まっていた、とも言えなくもない)


今回はパパの回。でもせっかくなので子同士、親子でも戦績比較してみましょう。
ケビン・マグヌッセン 1992年10月5日生まれ
14年~ 52戦参戦中
0勝 PP0回 FL0回 表彰台1回 入賞17回
   14年 マクラーレン 19回出走 予選4位  決勝2位
   15年 マクラーレン   1回出走 予選18位 決勝 - 位
   16年 ルノー            21回出走 予選12位 決勝7位
   17年 ハース            11回出走 予選11位 決勝7位

父同様の「苦そうな様相」を初めて見た時「あ、なかなか似てる!」と思いました。決して「親の七光り」だけのF1ステップアップではない、ケビンもちゃんと幼少時代からフォーミュラ・ルノーにドイツF3、そして父と同じイギリスF3で上位の成績をおさめ、父と同様に2010年からマクラーレンの育成ドライバーに加わっています。
興味深いのはケビンは父と同じマクラーレンからのデビュー、そして最終戦が最高位の父に対してデビュー戦となる2014年の開幕戦でいきなり予選3番手(2番手スタート)から2位表彰台を獲得してしまったこと。衝撃的でした。あと彼のイメージは「契約更新に泣かされる」ことでしょうか。来シーズンは引き続きハースからドライブすることが決まっていますが、マクラーレン時代もルノー時代もいつも危ういラインにいてヒヤヒヤしたものです。実力はあれどマシンの信頼性に悩まされたり、ストーブリーグでギリギリを演じるあたりが、もう1人の二世とは少し異なる点かもしれません。

マックス・フェルスタッペン 1997年9月30日生まれ
15年~ 51戦参戦中
1勝 PP0回 FL1回 表彰台8回 入賞33回
   15年 トロ・ロッソ 19回出走 予選6位  決勝4位
   16年 レッドブル     21回出走 予選2位 決勝1位
   17年 レッドブル     11回出走 予選4位 決勝3位

で、もう1人です。近年稀にみる期待の大型新人で、チャンピオン争いとは別に彼の走りに期待や「ある意味不安視」しているファンも多いのではないでしょうか。このブログでも度々クローズアップしてきているので、細かなことは書きませんが、レッドブルに昇格して以降、メキメキと頭角を示し、ポールポジションは取れずともスタートダッシュと先輩に怖気付かない攻めや守りは目を見張るものがあります。
今回の4人の中では若めの4歳からレースを行い、父親からの手厚いバックアップの期待以上の結果で次世代のトップドライバーの資質を開花できています。

まだまだ現役まっしぐらの2人を比較してみます。デビュー年だけみたら、ケビンもさすがトップチーム在籍だけあってマックスと比べて遜色はありませんでした。しかしケビンはルノー、ハースと中位チームにおさまり、一方でレッドブルの進学コースを進むマックスに完全に株を奪われていて、赤系のプロットより青系のプロットの大半が上をいきます。ご存知の通り、今シーズンのマックスはトラブルにミスと予想より結果が芳しくありません。本来決勝のプロットはもう一段階上にあってもいいと思います。

次は親子比較です。まずはマグヌッセン親子から。赤系が父ヤン、青系が息子ケビンです。レース数でも戦績でも一応父超えはしています。来シーズンも契約は続くし、この結果に甘んじてもらっては困ってしまいますが。
続いてフェルスタッペン親子。レース数が意外に多い父ですが、内容は完全に父を超えています。この次はマシン云々もありつつポールポジションをはじめとした予選の好位置を期待したいです。こちらもこの先が長いですから、当然ながらまだまだ成績の上昇は見込めます。

最後にドライバーズポイントランキングをみてみます。この手のグラフは今まで何回かやっていますが、上の方がスカスカですね(笑)今までの内容からの察しの通り、両者とも無事父よりは上位の結果となっています。2017年はまだシーズン半ばなので、より上位を目指してもらいたいものです。

2人の父親を使って比較してきました。ケビンやマックスしか知らない若いファンの方にも父2人を少しでも知ってもらえたら幸いです。
F1の歴史も60年を超えて、近年はこの2人以外も多くの二世ドライバーが登場してきています。やってみてちょっと面白かったので、また別の二世ドライバーで親子対決やってみようと思いました。もしかしたら「今シーズンが見納め」となりそうな方もいますしね(笑)

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2015年のF1チャンピオンシップはあと3戦を残して2年連続メルセデスのルイス・ハミルトンが獲得しました。去年とは違い予選からポールポジションを獲得して、チームメイトのニコ・ロズベルグをはね除けて終始余裕なチャンピオンらしい走りでした。


またまたやられてしまったロズベルグ。。速いには速いし、ポールも取れるし、優勝もある。なのに、どうしてもハミルトンに競り負けてしまう。
ロズベルグは2015年アメリカGP終了時点で

・参戦数                     :182
・ポールポジション    :19
・優勝                         :11
・表彰台                     :38
・ファステストラップ:13
・チャンピオン          :0

となっています。立派な経歴です。
運のなさでしょうか。いや、マシンは2年連続で最速マシンです。競り負けが多いのか、お人好しか。
運というと怒られてしまいますが、彼よりももっと強運でチャンピオンを獲得した人がいます。
そう、父親のケケ・ロズベルグです。今から33年前の1982年のチャンピオンです。息子は1985年生まれですから、生まれる前です。ロズベルグ家はF1の運を父の代で使い果たしてしまったのか?!
今回は正直自分もあまり詳しくない父のケケ・ロズベルグを調べてみたので簡単に書きたいと思います。


ケイヨ・エリク・ロズベルグ
ケケは通称です。1948年生まれの今年67歳。
息子ニコはドイツ国籍ですが、父はスウェーデン生まれのフィンランド人です。フィンランド初のF1ドライバーではありませんが、フィンランド初のF1チャンピオンで、F1で初めて「フライング・フィン」と形容された人です。その後フライング・フィンの称号はM・ハッキネン、K・ライコネンと引き継いでいきますが、次の候補はV・ボッタスであり、息子はチャンピオンになっても引き継がれないでしょう。妻(ニコの母)がドイツ人で、ドイツ国籍での参戦だからです。
(ちなみにフィンランド人は過去に9人参戦しそのうち3人チャンピオン獲得してます)

・参戦時期1978年~1986年(9年間)
・参戦数                     :128
・ポールポジション    :5
・優勝                         :5
・表彰台                     :17
・ファステストラップ:3
・チャンピオン          :1

こうしてみても、記録はすでに父ケケを息子ニコは上回っているんです。息子は父を超えました。ただあと一つ超えていないもの、それが「チャンピオン」です。

今の時代もハミルトン、ベッテル、アロンソ、ライコネン、バトンとチャンピオン獲得者が多く激戦ではありますが、決して父ケケの時代が楽だったわけではありません。D・ピローニもA・プロストもN・ラウダもM・アルボレートもN・ピケもN・マンセルもJ・ワトソンもG・ヴィルヌーブもい(ました)その中でチャンピオンを獲得した1982年は事故も多く、荒れに荒れたシーズンでした。

1981年のチャンピオンであるN・ピケはマシンの不調。A・プロストは開幕2連勝の後の9戦連続リタイヤ。ベルギーGPのG・ヴィルヌーブの死亡、またカナダGPではR・パレッティの死亡。パレッティと衝突してしまったD・ピローニも大事故を起こして負傷してしまいます。

ポイントランキング
  1 K・ロズベルグ             44 1勝
  2 D・ピローニ                39 2勝
  3 J・ワトソン                 39 2勝
  4 A・プロスト                34 2勝
  5 N・ラウダ                   30 2勝
  6 R・アルヌー                28 2勝
  7 P・タンベイ                25 1勝
  8 M・アルボレート        25 1勝
  9 E・デ・アンジェリス 23 1勝
10 R・パトレーゼ            21 1勝
11 N・ピケ                       20 1勝

わずか1勝でポイントランキング1位になり、最初で最後のワールドチャンピオンを獲得しました。なんと強運、というか16戦を11人で分け合う荒れたシーズンです。今とは開催数もポイント付与のルールも違いますから一概に比較できませんが、2015年のチャンピオンのハミルトンは3戦を残し327ポイントを得て2位のベッテルに対しもう手の届かない76ポイントの差をつけてしまいました。いかにメルセデス&ハミルトンが驚異的だったかがわかると思います。


運も味方してニコの父ケケはチャンピオンを手にしました。もちろんセンスやマシンが速い事がいいに越したことはありませんが「運も実力のウチ」を示した人でもあると思います。
ケケの驚くべきところは、この1982年の1勝がF1初優勝で、以降はわずか4勝で終えているところです。
荒っぽいカウンターを当ててアクセルを踏み込み、5勝のうち4勝は直角カーブが続く市街地サーキット(モナコ、ダラス、デトロイト、アデレード)であったことも彼の特徴の一つです。


髭を蓄えた丸顔にタバコが大好きで表彰台でも隠れてタバコをふかす。イマドキなイケメンのニコにはない、ワイルドな父ケケでした。ニコが選んだカーナンバー6は父ケケがチャンピオンを取った時のウィリアムズ時代のカーナンバーです。

父に続け、ニコよ!
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