モナコGP直前に衝撃的なニュースが走りました。F1に長く従事してきたラウダが5/20に70歳で亡くなりました。昨年からの闘病中で今まで生還や復活劇をみせてきたラウダですから、またF1パドックに足を運んでくれることだろうと安直に考えていたのですが、今回はそれも叶わなくなってしまいました。このブログではラウダの「F1以外の面」を度々クローズアップしてきました。訃報をうけ、今回はちゃんとF1におけるラウダをクローズアップし、功績を讃えたいと思います。

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ニキ・ラウダ
    1949年2月22日生まれ(オーストリア)
    1971年 マーチからデビュー F1在籍13年
    優勝25回                          歴代9位タイ
    表彰台54回                       歴代13位
    参戦数175戦                     歴代26位
    ポールポジション24回     歴代11位タイ
    ファステストラップ24回  歴代9位
    チャンピオン3回(1975,77,84)
    ※戦績ランキングは2019年第6戦まで

    71年 マーチ             1回出走    予選21位 決勝R
    72年 マーチ           12回全出走 予選19位 決勝7位
    73年 BRM              15回全出走 予選5位 決勝5位
    74年 フェラーリ    15回全出走 予選1位 決勝1位
    75年 フェラーリ    14回全出走 予選1位 決勝1位 ★
    76年 フェラーリ    14回出走     予選1位 決勝1位
    77年 フェラーリ    15回出走     予選1位 決勝1位 ★
    78年 ブラバム        16回全出走 予選1位 決勝1位
    79年 ブラバム        14回出走     予選4位 決勝4位

    82年 マクラーレン 15回出走     予選2位 決勝1位
    83年 マクラーレン 15回全出走 予選9位 決勝2位
    84年 マクラーレン 16回全出走 予選3位 決勝1位 ★
    85年 マクラーレン 15回出走     予選3位 決勝1位

ラウダの生い立ちや戦績は映画にもなったくらい有名で、当時をよく知らないmiyabikunよりもよっぽど詳しい方が多いと思いますが、知らない方のために一応基礎的なところから入ります。
「ニキ」というのはケケ・ロズベルグの「ケケ」やニコ・ヒュルケンベルグの「ニコ」と同様の愛称であり、本名はアンドレアス・ニコラウス・ラウダです。ラウダは裕福な家庭で生まれ、資産家である父からは後継者として育てられていました。ところがラウダには「レーシングドライバーになる」という野望があり、父の反対を押し切り、自らの生命保険を担保にするなど自力で資金繰りを行ってスポンサー獲得とレース参戦にこぎつけていきました。俗に言う「持参金ドライバー」(ペイドライバー)というやつです。今でいうストロールのような家柄なのに、ストロールと大きく違うのは「お金も技術も自力で」という点でしょうか。ラウダの方は父に勘当されてしまいました。
ヨーロッパF2で頭角を示すと、マーチの代表マックス・モズレーの目に留まり、1971年の母国、第8戦オーストリアGPでF1デビュー。予選22人中21番手、決勝はリタイヤで終えますが、翌72年シーズンからはフルタイム参戦のシートを得て正式に年間レースに加わっていきます。マーチではピーターソンの陰に隠れ、マシンの戦闘力不足もあってなかなか速さを見出すことができませんでした。そこでラウダはフィリップモリス(マールボロ)を味方につけ、73年はBRM(ブリティッシュ・レーシング・モーターズ)へ移籍、ゾルダーで行われた第5戦ベルギーGPで5位入賞を果たします。この活躍が評価され、ラウダの株価は一気に急上昇していきます。
決して速さあるわけではないBRMのマシンで入賞にこぎつけたラウダをエンツォ・フェラーリが高評価、さらに先輩ドライバーのレガッツォーニの後押しもあり、74年からトップチームのフェラーリのシートを獲得することに成功。移籍初戦の開幕戦アルゼンチンGPでいきなり2位表彰台を獲得すると、第3戦南アフリカGPで初ポール、第4戦のハラマでのスペインGPではポールからの初優勝と、ようやく「理論派」ラウダの口だけではない「証拠」を知らしめることとなります。フェラーリ1年目は6戦連続9回のポール獲得で2勝。 2年目75年も9回ポールの3連続を含む5勝を挙げて、F1参戦5年目にチャンピオンの仲間入りを果たしています。
ここまでの経緯をみても、苦労はしつつも知恵や金策を使い、F1の頂点に立ち大成功を収めています。ただラウダのすごいところは映画「RUSH」をご覧になった方ならば若い方でもご承知の通りココからです。チャンピオンとして迎えた76年も序盤から連続優勝や表彰台登壇で着実に連覇を目指している矢先、ニュルブルクリンクでの第10戦ドイツGPでスピンし大破。
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一命は取り留めますが、当然ながら火傷の治療により以降のレースは欠場。F1ドライバー人生すら危うい状況になってしまいました。ところが大手術とリハビリを経て、事故からたった1ヶ月ちょっと、2戦の欠場のみでチームの母国である第13戦イタリアGPは予選5番手、決勝4位でカムバックを果たします。今までも事故や骨折などで戦線離脱し、復帰するドライバーが多くいる中、生死をさまよう事故に遭いながら短期間で復帰したラウダが「不死鳥」と呼ばれる所以はココにあります。それにも関わらずこのシーズンはランキング2位で終え、翌77年は2回目のチャンピオンを獲得してしまうわけですから、怪我をしつつも才能やセンスが錆びることはありませんでした。しかしラウダはフェラーリよりも革新的にマシン開発に取り組むブラバムへの移籍を決めており、第16戦カナダGPと最終戦日本GP(富士スピードウェイ)の2戦を欠場、エンツォ・フェラーリとケンカ別れすることとなりました。
ブラバムではポールポジションや表彰台登壇はあるものの「表彰台かリタイヤか」といったメリハリのある戦績が続き「F1へのモチベーション」が低下する原因の一つとなりました。2年目の79年は表彰台すら無くなり、シーズン残り2戦にあたる第14戦カナダGP予選を前にF1引退を発表、かねて並行していた「ラウダ航空」経営にシフトしていきます。(このF1空白期間については以前に取り扱いました)
一方的なF1引退を発表してしばらく経った82年シーズン前、マクラーレンのロン・デニスがラウダをテストに招き、82年シーズンから再びF1の世界に戻ることとなります。序盤はブランクに適応する手探りな走りとなるものの、第3戦アメリカ西GPと第10戦イギリスGPで優勝を挙げて「予選の出遅れを決勝でしっかり取り返す」という貫禄のレース運びに持ち込んでいきました。84年から若手のプロストがチームメイトとなりエンジンもフォードからポルシェに換装するとチームは一気に上り調子に転換。プロストな7勝を挙げる中、ラウダは5勝でポールポジションがないにも関わらず、わずか0.5ポイント差で3回目のチャンピオンを獲得します。事故前にチャンピオン、事故後もチャンピオン、復帰後もチャンピオンという前人未到のキャリアを成し遂げたラウダは85年のリタイヤ続きに嫌気がさし、プロストに引導を渡す形で「F1正式引退」となりました。
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基礎的と言いつつ、ラウダのキャリアを一言で書けず、だいぶ長くなりました。これ以外にも書き切れないエピソードは沢山あります。ここからはいつものキャリアグラフをみていくことにします。
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1シーズンの参戦ドライバーは現在よりも多くいますが、18位より上を表現しました。キャリア序盤のマーチ時代はポイント獲得がありませんのでグラフに入らない位置にいます。ご覧の通りキャリアのピークは映画にも取り上げられた参戦4年目から7年目に所属したフェラーリ時代で2回チャンピオンを獲得しました。当時のフェラーリもマシン自体がとても優れていたわけではなく、相方レガッツォーニの結果からも「ラウダの腕によって底上げされたこと」が大いに反映されています。ドライビングテクニックもさることながら、メカニカルな面にも知識が長け、マシン改良やセッティング能力も高かったようです。ラウダをフェラーリ加入に肩入れしてくれた先輩を在籍初年から圧倒していました。レガッツォーニの心中も気になるところですよね(笑)
また、ラウダの特徴の一つに「モチベーションに左右される点」もあります。上でも「ケンカ別れ、モチベーション低下、嫌気」という表現しましたが、腕が落ちて移籍や引退を決めたというよりかはフェラーリと不仲になったり、ブラバムの不甲斐無さを理由にしたりと「マシンが気に入らない、他に興味を持った」など、今のドライバーにはあまり無い理由です。ひと昔ふた昔前のドライバーは強気でした。お金よりも満足感やチーム体制との相性なども重要です。

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続いて予選、決勝順位のプロットです。当時は6位までが入賞圏でした。チーム別を色で表現しています。どちらのグラフも26位までの記載とし、27位に集まっているものが決勝リタイヤや失格を示しています。今回は予選決勝を見易く別々にしたので、逆に気付き辛いかもしれませんが、ラウダの特徴的な戦い方を見ることができます。それは「予選よりも決勝の方が順位を上げている点」です。ラウダは通算24回のポールポジションを獲得し、優勝は25勝。ファステストラップ24回でした。プロットをみると、予選順位より決勝順位の方が上にきます。予選は上位でなくても、決勝レースでうまく前に出て上位フィニッシュする。ライバルに離されたらマシンをぶつけたり壊さないようにして入賞を獲得する。その積み重ねが84年の「勝利数が少なくても年間で上回る」という賢い勝ち方です。人間、特にスポーツマンはライバルに勝ちたい、前にいたいという気持ちが強く出ます。ラウダはその「うわべだけの位置」に捉われず、ルールに則した手段を冷静に選べるドライバーでした。ラウダよりも前の時代はmiyabikunではなお知りえませんが、後世ではプロストをはじめ、M・シューマッハやアロンソはこのような勝ち方を積み重ねてきましたよね。「速い」という言葉よりも「強い」「手強い」という言葉がしっくりきます。プロストは特に、ラウダの真横で悔しい思いをしましたもんね。プロストの計算づくのレースペースや緩急ある走りなど、ラウダからの影響もあるはずです。

こちらもドライバー系お馴染みのもの「チームメイト対決」です。この時代、特に70年代は現在のように2人体制でなかったり、シーズン中のチェンジもよくあることでした。ライバル側は代表的なドライバーのみの名前を記載しています。また、チーム自体参加しなかったレース、ラウダが出走していないレースは勝敗をつけられないため除外しました。
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こうしてみてもフェラーリ在籍時は優勢に立つことが多くても、他はうまく勝敗を分け合っているように思えます。75年と77年は(実は事故した76年ももしかしたら)チャンピオンを獲得したので察しが付きますが、引退復帰後の84年もプロストに対して辛勝したチャンピオンイヤーでした。決勝よりも予選ではプロストに圧倒的に負け越しています。それでもチャンピオンを獲得してしまうのだから、先述のようにラウダの「勝利への方程式」は希少なやり方でした。デビュー直後と晩年は大敗しているものの、ラウダが負け越しているのはピケやプロスト、逆に勝ち越しているのはレガッツォーニやロイテマン、ワトソンと考えると「チャンピオンになれる、なれない」がはっきり分かれてみえます。

最後は先程描いたラウダのランキンググラフに同時代のライバルを加えて、例のごとくぐちゃぐちゃになっちゃっているグラフをご覧頂きます。ラウダは今回の主役ですので黒太線、チャンピオン獲得者8人は色別の実線、あとチャンピオンではありませんが、チームメイトになったりこの時代を象徴するドライバー3人を破線で色分けしています。ちなみに82年のみチャンピオンが空欄ですが、ご存知の通り1勝チャンピオンのK・ロズベルグです。時代に若干のズレがあると考えて除外しました。
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60年代末から70年代前半に圧倒してきたスチュワートが身を引くと、そこから一気にラウダをはじめとした若手のライバルが台頭してきています。70年代中盤になってフェラーリを操るラウダが一時代を築いて、隙を狙う形でピンク色のハントが割って入っています。要はココが映画で描かれた時代ですね。ラウダが1回目の引退をすると、もっと若手の天才ピケ(父)やプロスト、比較対象からは除外しているG・ヴィルヌーブ(父)あたりが名乗りを上げ、復帰したラウダもそれに負けじと食らいついた様子がわかります。ラウダのライバルのイメージが強いハント以外にも、実に数多くのライバルを相手にF1界のトップに君臨し続けたわけです。グラフがぐちゃぐちゃしていることは、グラフが見辛い以前に「混戦の末チャンピオン争いをした時代であった」ことも合わせて読み取れます。
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去る5/29にオーストリアの聖ステファン教会にてラウダの葬儀が執り行われました。F1ドライバー時代も様々な復活劇を遂げ、ドライバーから離れたのちの最近までF1に携わってきたラウダもさすがに病相手には勝てませんでした。ただ速かった、強かったドライバーという一言では片付かず「自負、理論だったバトル、問題提起と改善」といった頭を使う稀有のレジェンドはF1で異彩を放ちました。古舘伊知郎風に表現するとしたら「F1働き方改革」とでも呼びそう(笑)全てはとても真似できないけど、我々もその「ラウダニズム」を持って取り組めば、効率的に物事をゴールまで進めていける、と教えてくれたように感じます。

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これからは遠くからゆっくりF1観戦し、昔の仲間と辛辣な評価をしてもらえたらいいなと思います。最後になりましたが、心よりご冥福をお祈りします。

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