F1 えきぞーすとのーと

よくあるニュースネタやこ難しいテクニカルな話ではなく、メインは予選や決勝のTV観戦したそのものを個人的観点から綴るF1ブログです。  また、懐かしのマシンやレースを振り返ったり、記録やデータからF1を分析。その他ミニカーやグッズ集めも好きなので、それらを絡めつつ広く深くアツくF1の面白さやすごさを発信し、楽しんでもらえたらいいなと思っています。

タグ:墜落事故

メルセデスに帯同するラウダは、体調不良のため昨シーズン後半に帯同を外れ、再び復帰すべく治療に専念しています。以前にラウダはモータースポーツ以外に航空会社を経営していたという「2つの顔」について書きました。当ブログのアップ700回目となる今回はその2つ目の顔の「ある出来事とラウダの信念」をフォーカスしていきます。

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F1でチャンピオンを獲得したラウダは晩年のブラバムの「戦闘力の低いマシン」に嫌気がさし1979年の最終戦を待たずに引退(第1期)以降は昔から関心があった航空業界で「ラウダ航空」を設立、ビジネススタイルをシフトしていきます。順調に国際線を拡大し成長していく最中、1991年に事件が起こりました。航空業界で最も恐ろしい出来事「墜落事故」です。F1界のラウダの生き様は映画「RUSH」で知る方も多いと思いますが、ラウダそのもの人物をみていくとこの事件も語らないわけにはいきません。

《事故概要》
ラウダ航空004便
      機体  :ボーイング767-300ER
      日時  :1991年5月26日 16時18分頃
    出発地:中国 香港啓徳空港(HKG)現在は閉港
    経由地:タイ ドンムアン空港(DMK)
    終着地:オーストリア ウィーン国際空港(VIE)
    墜落地:タイ スパンブリー・ダーンチャーン郡
    乗務員:運航2人+客室8人=10人
      乗客  :213人
      被害  :乗員乗客223人全員死亡
      原因  :(後述)

事故はナショナルジオグラフィックTV「メーデー!航空機事故の真実と真相」でも取り扱われ、事故の原因究明の様子が描かれています。その画像をお借りしながら事故調査委員会とラウダの奔走をご紹介します。
(一部ショッキングな再現画像や描写があります)

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香港からのフライトの後、バンコク経由でウィーンに向かう機体はドンムアン空港を16時に離陸し、6分後に2基搭載するエンジンの左側の逆噴射装置(スラストリバーサー)の油圧弁に関する警告が点いたり消えたりを繰り返すようになります。逆噴射装置は本来「着陸後の空気ブレーキ」として使用するもので、上空を航行中に使用することはまずありません。
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特に気にせず高度7,500mまで上昇を続けると、警告開始10分後に突如逆噴射装置が作動し、揚力が低下。バランスを崩した機体は設計以上の負荷がかかり機体後方から分解し始め、離陸からわずか15分足らず、装置作動から30秒でタイの山腹に墜落。223人全員が死亡しました。タイで起きた航空事故で史上最多、またボーイング767で最多の死者数となる大事故となりました。
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ラウダは電話で事故を伝えられ、声明しています。
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《事故原因》
機体の残骸は広範囲に飛散していることから、単に墜落しただけではなく「空中で分解または爆破」したと推測されました。日本にはあまり馴染みはありませんが当時は湾岸戦争の最中、海外では爆撃やテロはつきものです。乗客にそれを起こしそうな者、起こされるターゲットが無いか調べていきます。
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残骸は墜落原因を知る限られた証拠の一つ。金属の裂け方や焦げ、破片の大きさや遺体の損傷からも原因を突き止めることができます。というより、それらから突き止めるしかない。ただ今回は地元住民が現場に足を踏み入れ、珍しい金属を略奪し、転売する姿が目撃されており、遺品捜査もゆっくりしていられません。
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ラウダも原因究明のため早々と現地入りし、自らその残状を目にしています。ラウダの時代のF1もクラッシュや仲間の事故死はみており、自らも1976年ドイツGPで瀕死の事故に遭っていますが、この現場を見たラウダは「目にした事故で最も悲惨なもの」と話しています。人の命に大小は無くても、航空機事故はF1事故よりも甚大で多数を巻き込みます。miyabikunも乗り物全般、もちろん飛行機も好きなのですが、乗るとなると墜落の可能性はゼロで無かろうと毎回心の中で覚悟してしまいます。
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損傷したブラックボックス(ボイスレコーダーやフライトレコーダー)とエンジンを発見すると、調査員は不可解な事実を知ることになります。
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千切れて離れた位置に墜落したエンジンは航行中にはあり得ない「逆噴射装置が使われた状態」にあったこと。またボイスレコーダーに残されたやり取りから運航乗務員の意図や落ち度もみられないため、ラウダをはじめ調査員は「テロではなくメカニカルトラブルであった」ことを確信しました。
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※この後ろ姿は番組中でラウダを演じた俳優です

《ラウダの信念》
F1での瀕死の事故は結局明確な原因も分からず、ただ早期の復帰だけを目指して尽力しました。今回は自分の身体は無傷も罪無き多くの乗客と会社の仲間を失うこととなりました。ラウダは事故で命を落とした人達のためにも、残された家族のためにも、また自身の会社の威信をかけて原因究明に向けてボーイング社に「航行中の逆噴射装置作動とその危険性」について問いただしました。
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ボーイング社からの回答は「航行時の逆噴射は通常時の10%の揚力低下に過ぎず、墜落の原因になり得ない」でした。自らがパイロットもこなすラウダはその回答に納得できず、シミュレーターや風洞実験、さらにはボーイング社のパイロットが実機による再現実験を行い、当初ボーイング社から提示された低下率を大きく上回る25%の揚力低下を証明してみせます。空気の薄い高高度で揚力が低下するとなれば、安全な航行の足かせになることは明らかです。
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墜落に値するメカニズムは証明されました。続いて「なぜ航行中に逆噴射装置が勝手に作動したのか」についても、指示を送る油圧弁の模型を作製し、幾多にも及ぶ事象を繰り返し行いました。
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そして誤作動の原因と思われる現象に辿り着きます。それは「配線がショートした時に油圧弁がエラーを起こす」ものでした。これは運行乗務員(パイロット)側ではどうやってもカバーできない、機体の設計そのものの問題であったことを突き止めました。
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《結果と業界への波及》
ボーイング社を相手に懐疑をもったラウダは事故をうやむやにするのではなく、真の原因と不備をみつけ、ボーイング社と共に遺族に対して賠償することとなりました。また、ラウダ航空の事故は
「高高度航行中の逆噴射作動は航行に支障をきたす」
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「動作指示する油圧弁は一段でなく二段で制御する」
という航空業界に新たな常識を与えます。今ではフェールセーフや二段構えが当たり前な世の中になりましたね。機械制御のみならず、何事においてもこれは基本であり、その大切さを正しく教えてくれました。またラウダは番組の取材でこのように答えています「F1で3回チャンピオンになるよりも、航空会社を経営する方が大変」と。

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現役ドライバー時代から理論的かつ賢明な走りでF1界を制し、引退後は辛口コメントでフェラーリやジャガー、メルセデスの相談役もこなしてきました。自社の事故も誠心誠意で真実を明かすところにも「ラウダらしさ」を感じます。
ラウダはmiyabikunの亡き父とも歳が近い、今月で70歳を迎えます。これまで数々生死の境を乗り越えてきたラウダ。闘病は大変だと思うけどスチュワートやフィティパルディなどと並ぶ「古きF1」を知る貴重な生き字引ですから、長生きして、またF1の舞台に戻ってくるといいなと思います。


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今やテレビ観戦で一回は目にするニキ・ラウダ。スーツにもカジュアルにも赤いキャップをかぶるそのおじさんは3回もチャンピオンを獲得した元F1ドライバー。今はメルセデスAMGの非常勤会長の肩書きです。今年66歳で初めの子供のマティアス・ラウダもレーシングドライバーです。

本名はアンドレアス・ニコラウス・ラウダ。ニキは愛称です。
現役初頭は金策に頭を使い、メカに長け、緻密な計算で勝利までもっていく走りをする先輩にもチーム代表にも物怖じしない自信と努力家のドライバーでした。少し前に映画「RUSH」で今は亡きライバルのジェームズ・ハントとの人間関係の描写も話題となりました。あとは1976年のドイツGPで瀕死の事故を負い、顔に痛々しい痕を残したまま復帰し、チャンピオンを獲得したのも有名ですね。
このニキ・ラウダ。実は元ドライバーやご意見番以外にも顔を持っています。
「航空会社の経営者」でもあるのです。
話題がF1から少し離れますが、F1とは違う顔をもつニキ・ラウダについて書いてみます。


1971年に元FIAの会長であるマックス・モズレーにみそめられ、マーチからデビューしたラウダはBRM、フェラーリと渡り歩き、1975年に312Tを駆り5勝し初のチャンピオンを獲得します。

それからのちの「マクラーレンMP4/4」や市販車である「マクラーレンF1」を手がけたゴードン・マーレーの作ったマシンに惚れ、1978年にブラバムへ移籍し、かの有名なBT46B「ファンカー」もドライブします。またこの年から「ラウダ航空」を設立します。

そして翌年の1979年にモータースポーツに嫌気がさしたラウダは「同じところをグルグル回るより、一生のうちにやっておきたいことがある」という言葉を残して急遽、第14戦カナダGPを前に引退して「第二の人生」を歩むことになります。ラウダ航空の本格的な始まりです。


ラウダ航空はラウダの地元であるオーストリアのウィーン国際空港を拠点として、1985年にチャーター便を始めたり、1987年に近距離の定期便、1989年にはウィーンからオーストラリアのシドニーとメルボルンまで向かう長距離便も担うようになります。
ラウダ自身は1981年にロン・デニス率いるマクラーレンに招かれ、翌年1982年から初代MP4をドライブし、1984年に3度目のチャンピオンを獲得しますが、ラウダ航空の経営の方も成功の一途をたどります。ラウダ自身も操縦桿を握り、フライトをしたこともあるそうです。

しかし、1985年のF1引退後の1991年5月26日。ラウダ航空は航空業界で一番の危機といえる「墜落事故」を起こしてしまいます。

香港発バンコク経由ウィーン行きのラウダ航空004便はタイ上空を航行中に二発あるボーイング767-300ERのエンジン一発が逆噴射(本来は着陸時の減速するときに使用する、エンジンの流れを後ろから横に流す空力ブレーキのこと)してしまい空中分解、乗員乗客合わせて223人全員死亡する大惨事でした。

ラウダは事故後、即座に現場に出向き、ボーイング社に対してシミュレーションを用いた原因解明に勤しんだものの、当然ながら乗員乗客の遺族から訴えられ、2000年に経営権をオーストリア最大の航空会社であるオーストリア航空に譲渡し、ラウダ航空は消滅します。


一度は諦めざるを得なかった航空会社経営に未練があったのか、ラウダは2003年にアエロ・ロイド・オーストリア航空を買収し、今度は「ニキ航空」という名で再び航空会社を設立し、最近流行りのLCC(格安航空会社)で再び参入し、今日に至ります。ちなみに今は一機250億円近くする旅客機を20機近く保有し、それはラウダ航空で事故を起こし、戦ったボーイング社のものではなく、全てがエアバス社製です。



F1では「不死鳥の如く瀕死の事故から復活」また「辛口で一言余計なご意見番」として。飽くなき飛行機の夢を諦めず苦難を乗り越えて「二度の航空会社経営」さらにプライベートでは30歳年下の元CAと二度目の結婚で「60歳にして双子のパパ」です。若い頃語った「一生のうちにやっておきたいことがある」の言葉の通り、ラウダはやりたいことをやりたい時にチャレンジする精神がある人だと思います。自分も見習わねば!
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