2年ほど前に「チャンピオンになれなかった」ドライバーについて書きました。前回は近年30年弱の「チャンピオンに手がかかりそうでダメだった」ドライバーを挙げました。今回はもう少し定量的に、成績重視で全時代から選定してみていきます。前回とカブるドライバーも数名いたり、度々似たようなネタばかりな部分もありますが、グラフも使いつつ戦績をもっと掘り下げて「どこがどうダメだったか」を見ていきたいと思います。

チャンピオン獲得者を除いた、優勝回数上位のドライバーを順に並べました。中途半端な上位11名、優勝回数7勝以上の「無冠の帝王」達になります。

S・モス                      51年〜61年 66戦参戦
16勝 PP16回 FL19回 表彰台24回 入賞28回
   1955年 2位 17点差 全7戦   1位1回 2位2回
   1956年 2位   3点差 全8戦   1位2回 2位1回
   1957年 2位 15点差 全8戦   1位3回
   1958年 2位   1点差 全11戦 1位4回 2位1回
   1959年 3位             全9戦   1位2回 2位1回
   1960年 3位             全10戦 1位2回 3位1回
   1961年 3位             全8戦   1位1回
F1創成期1950年代のみならず、全時代における「無冠の帝王」という不名誉な呼び名はまだしばらくこの方が保ち続けそうです。優勝回数は頭一つ出た16勝を数え、現時点でみても優勝経験者108人中17番目に位置する好成績です。ポールポジションや表彰台回数も、時代背景を加味してもチャンピオンクラスだし、これより低い成績でチャンピオンを複数回獲得した人もいたりします。
成績をみていくとなんと4年連続でランキング2位で終えています。相手はファンジオが3回、ホーソーンが1回となります。時代を恨むべきか、自分の腕が足りなかったのか、ココまで続くと当たる先もなく「ドライバーのセンス無いんじゃない?!」なんて病んでしまいそう。
参考までに各人のランキンググラフに合わせて、当時のチームとターゲットとなるチャンピオンを追記しました。モスの時代はコンストラクターからマシンを買い、プライベーターとして参戦している時代で、また移籍も頻繁に行われていました。メルセデスの撤退によって移籍を余儀なくされてしまうし、優勝を重ねてもファンジオという頑強な「壁」が立ちはだかり、まさしくオイシい時期に栄冠を掴めず、晩年もランキング3位のままF1を去っています。

D・クルサード           94年〜08年 246戦参戦
13勝 PP12回 FL18回 表彰台62回 入賞121回
   1995年 3位             全17戦 1位1回 2位4回
   1997年 3位             全17戦 1位2回 2位2回
   1998年 3位             全16戦 1位1回 2位6回
   2000年 3位             全17戦 1位3回 2位3回
   2001年 2位 58点差 全17戦 1位2回 2位3回
引退後もメディアで見る機会が多い、90年代後半から2000年代前半を代表する無冠ドライバーです。セナの後任としてトップチームであるウィリアムズからのデビューにも関わらず、3位止まりも多く、悔しいのはマクラーレン時代にチームメイトのハッキネンに2回も取られてしまいました。実のところ、優勝時期も順位もデビューから数えればハッキネンより早いんです。たまたまです、たまたまマクラーレンとハッキネンとメルセデスとブリヂストンが相まって最速に化けただけ、たまたま(笑)前に振り返った1997年最終戦ヨーロッパGPのレース、直後の1998年開幕戦オーストラリアGPの「1コーナーを先に通過した者が」協定は今でも悔やんでいるようですね。
ピークはキャリア前半になっており、せっかくチームメイトが引退したのに、入れ替わりでやってきた若手のライコネンにもエースの座をを奪われ、ライバルの若手の台頭についていけず急降下の一途を辿りました。近年のマッサと同様に、晩年は立ち上げレッドブルで「悟り」を開いたかの如く、静かにF1ドライバー人生に幕を閉じてしまいます。

C・ロイテマン       72年〜82年 146戦参戦
12勝 PP6回 FL5回 表彰台45回 入賞66回
   1975年 3位           全14戦 1位1回 2位2回
   1978年 3位           全16戦 1位4回 3位3回
   1980年 3位           全14戦 1位1回 2位3回
   1981年 2位 1点差 全15戦 1位2回 2位3回
今回ノミネートしていない人気のファイターであるG・ヴィルヌーブと並んで1980年代前半の無冠の一人です。ロイテマンは数少ない「デビュー戦でポールポジション」という記録も持っており、デビュー年と引退前を除くと比較的好成績を保ってきたドライバーでもあります。また引退の理由も単に腕が落ちたためではなく、母国のアルゼンチンと所属するウィリアムズの母国イギリスとの間で「フォークランド紛争」があり、撤退を余儀なくされたとのこと。全く勿体無い話です。
リアルタイムで観ていたわけではないので、本やネットの情報の受け売りではありますが、ロイテマンは「ライバルやチームメイトとのいざこざが多かった」と言われています。フェラーリの前任であるラウダをはじめ、ウィリアムズではチャンピオンのジョーンズとも不仲がありました。また、見た目からも想像できる言葉数も多くなく無骨な面もあったとのこと。今でいう「揉め事が多そうなライコネン」を想像したら分かりやすいかもしれませんね。

R・バリチェロ           93年〜11年 322戦参戦
11勝 PP14回 FL17回 表彰台68回 入賞140回
   2001年 3位             全17戦 2位5回 3位5回
   2002年 2位 67点差 全17戦 1位4回 2位5回
   2004年 2位 34点差 全18戦 1位2回 2位7回
   2009年 3位             全17戦 1位2回 2位3回
ちょうど母国の偉大な先輩セナとラップし、死後は若き後継者と母国から期待されてきました。2000年代前半の無冠の帝王となってしまった一番の理由は「選んだチーム(チームメイト)が悪かった」のだと思います。
ジョーダン、スチュワートで充分修行を重ね、トップチームであるフェラーリで「二代目」に仰せつかる、ココがマズかった。勝てるマシンや勝てるチャンスがあっても「勝ちを譲らなければならない」暗黙のルールがありました(あるのは承知で加入したとは思いますが)
もし「王」がいなければ、当然ながら勝利数を伸ばし、チャンピオン争いも至近になったでしょう。ただ「そのマシンと体制があったのか?」と考えると、この彼にはその資質があったとも言えません。王だからその戦闘力のマシンを作り、王だからチームの体制を整え、王だからそういうチームメイトを飼えたのです。要は王の相方になると必ずその問題は想定され、おこぼれで優勝やチャンピオン獲得のチャンスを得るしかなかったのです(そんな王も晩年はあるお坊ちゃまには容赦無くやられたわけですが)
そんな境遇の中で予想もしなかった2009年に願っても無いチャンス!似たような経歴でくすぶっていた同士で半信半疑なシーズンを送っても、結果は3位。チャンピオンはこういうチャンスを外してはなりません。王にはなれず「鉄人」に。出走記録だけは誰にも負けていません。

F・マッサ                  02年,04年〜 259戦参戦中
11勝 PP16回 FL15回 表彰台41回 入賞157回
   2006年 3位           全18戦 1位2回 2位3回
   2008年 2位 1点差 全18戦 1位6回 2位2回
この方をココに入れていいか悩みました。だってまだチャンピオン獲得の可能性は全くのゼロと言ってはいけないから(笑)でも今回は勝利数上位の無冠ドライバーを並べているので、悔しかったら現役中は喝入れて頑張ってもらいましょう!
11勝で並び、また「先代」でもある母国の先輩と似たキャリアを辿っています。今のところ2000年代後半の無冠の帝王と言えるでしょうか。ここに書くまでもなく皆さんもよくご存知なドライバーですね。彼も先代と同じく「選んだチーム(チームメイト)」が悪かった。キャリアは「トッド繋がり」が功を奏してザウバーからデビューしてフェラーリに昇格するというこれまた同じ「王道路線」を三代目として進んではいます。が、先代と以下同文です。2006年いっぱいでその「王」が退いてチャンスと思いきや、新参者の方が速くて華もある。母国で優勝のチャンスも譲り、2007年のチャンピオンはプレゼント。いざ自分の番だと自身最多勝で母国優勝しても、ギャグかと疑いたくなる思わせぶりに涙を呑み、2010年からのお相方も2回の王様経験者だったため譲るときは譲る。お人好しなのか運の無さか、いやいやまだ分かりませんぞ?!何せ先代の最後と同じ、名門のウィリアムズに在籍中です。ただし、くれぐれも今そばにいるお弟子さんには「そのノウハウや流れ」までは伝承しないように。

R・ピーターソン     70年〜78年 123戦参戦
10勝 PP14回 FL9回 表彰台26回 入賞42回
   1971年 2位 33点差 全11戦   2位4回 3位1回
   1973年 3位             全15戦   1位4回 2位2回
   1978年 2位 13点差 14/16戦 1位2回 2位4回※
      ※第13戦イタリアGPで死亡してストップ
ピーターソンは今回のノミネートで唯一「死によってチャンピオンの可能性を絶たれた」ドライバーです。セナと同様に「後まで生きていたらどうだったろうか」と語られる有望株でした。この次の世代、ラウダやピケ、プロストを脅かす存在になっていたかもしれません。
参戦2年目の1971年で早くもスチュワートに大きく離されたランキング2位を獲得。ロータス初年1973年の第8戦フランスGPで初優勝を飾ると、以降は優勝かリタイヤかという戦績でチームメイトのチャンピオン、E・フィッティパルディを上回るランキング3位となります。
ピーターソンが最も惜しいシーズンとなったのは最終年となった1978年でした。参戦した14戦のうち優勝2回、2位4回、3位1回と表彰台7回を獲得してもメインはチームメイトのアンドレッティに優先権が与えられ、ニュースペックのアイテムやマシン、順位で我慢を強いられることとなります。翌1979年にマクラーレンの移籍を決めつつ挑んだ第14戦イタリアGPではスタート直後に10台が絡むクラッシュしてV・ブランビラと共に病院搬送。2人とも命には別条ない重症でしたがピーターソンは脂肪塞栓症という医療ミスも疑いたくなる事故に直接関係ないような病名で34歳で死亡。チームメイトのアンドレッティが逃げ切ってチャンピオンを決定させました。
チャンピオンを獲得できなかったピーターソンでしたが、違った形で現在のF1に2つの痕跡を残しています。1つはモンツァのバンク部から分岐する位置にある第1シケイン「ヴァリアンテ・レティフィーロ」で死後しばらくしてから形状変更された程度で位置は変わっていません。もう1つが現在2列に並ぶスターティンググリッドです。以前は横3列に並ぶサーキットもありましたが、ピーターソンの事故以降は千鳥2列配置に統一されています。

G・ベルガー              84年〜97年 210戦参戦
10勝 PP12回 FL21回 表彰台48回 入賞95回
   1988年 3位             全16戦 1位1回 2位2回
   1994年 3位             全16戦 1位1回 2位3回
日本とも関わりも多い人気ドライバーのベルガーもトップチームを行ったり来たり。ベネトンにフェラーリにマクラーレン、現在でいうアロンソみたいです。一度辞めた会社に入り直すのって自身には想像つきませんが(笑)
トップチームに移籍してからは軒並み好位置にランキングは伸ばせていますが、最も上位となる3位はいずれもフェラーリ2年目に獲得しています。1988年はマクラーレンのバカ勝ちの合間を縫って唯一優勝を飾った第12戦イタリアGPが燦然と輝きます。1994年は仲良しセナが他界したことで四天王全員がいなくなった年です。本来はココで実績抜群のベテランの願っても無いチャンスといえますが、ベネトンの若手M・シューマッハとウィリアムズの遅咲きD・ヒルの半分程度しかポイントを稼ぐことができませんでした。
ベルガーの弱点、ハンデとなったのは「低速コーナーの処理」と「ドライバーには珍しい高身長」でした。高速コーナーではピカイチな走りをみせるも、勝てるレースのミスや取りこぼしも多く、優勝したレースは初優勝や唯一優勝など、節目やメモリアルなものが多かったのが印象的でした。「夜のチャンピオン」ならば、、ハント、ピケ、セナに続いて獲得したことでしょう(笑)

M・ウェバー            02年〜13年 215戦参戦
9勝 PP13回 FL19回 表彰台42回 入賞112回
   2010年 3位             全19戦 1位4回 2位4回
   2011年 3位             全19戦 1位1回 2位2回
   2013年 3位             全19戦 2位5回 3位3回
最近の2010年代前半を象徴する無冠ドライバーですね。下位チーム時代から予選は比較的好位置につけて周囲からの期待や評価も高かったと思いますが、決勝となるとハイドフェルドやベッテルなどチームメイトに負けるケースが多く、チーム変遷をみてもマシン依存度の高さが成績に反映されている点が見受けられます。
キャリア晩年の最強レッドブル時代をみて、仮にベッテルには勝てなくともあのマシンをもってすれば2位を量産しているはずです。二強にまで成り上がった2009年はベッテルの表彰台8回に対してウェバーも8回で14.5ポイント負け。チャンピオンチームとなった2010年はベッテル10回に対してウェバー同じく10回で14ポイント負け。無敵状態の2011年はベッテル17回でウェバー10回で134ポイント負け。混戦の2012年は一度腐って、最終年2013年はベッテル16回でウェバーは半数の8回でポイントも半数となる198ポイントも差がついてしまって、かつランキングは全て3位止まりでした。同じマシンをもってこの差、多少ベッテル贔屓な面がありつつもこの差は腕の差と見ざるを得ません。
ウェバーの有名な捨てゼリフ「ナンバー2にしては上出来だろう」チームのナンバー2は確立していましたが、シーズンのナンバー2には残念ながら一度もなれず終い。

J・イクス                 67年〜79年 114戦参戦
8勝 PP13回 FL14回 表彰台25回 入賞40回
   1969年 2位 26点差 全11戦 1位2回 2位2回
   1970年 2位   5点差 全13戦 1位3回 2位1回
古い時代のドライバーではありますが、名前を知る方も多いと思います。親兄弟、子ともレースに勤しみ、F1以外の耐久レースやラリーなど様々なモータースポーツに参戦するレース屋さんでした。
デビューはF2マシンで混合のF1に参戦、F1マシンに負けない速さでスチュワートを上回る内容でF1昇格を決めています。参戦2年目はクーパーからフェラーリへ移籍し、1968年第4戦で母国のベルギーGPで初表彰台、第6戦フランスGPで早くも初優勝、そして第8戦ドイツGPでは当時最年少となるポールポジションを獲得して著しい早さで成長をみせます。1969年はブラバムからの参戦となり、スチュワートが早々にチャンピオンを決めてしまいますが、第9戦カナダGPではそのスチュワートと接触しつつも優勝し、スチュワートと対等に走れること示しました。
翌1970年はフェラーリに戻って開幕から3戦連続リタイヤののちに優勝1回、2位1回、3位1回と復調をみせて第10戦イタリアGPに臨みました。このシーズンはリントが5勝をあげ、ランキングで頭一つ出た形で進行していましたが、イタリアGP予選にパラボリカで激突死して「ランキングトップが不在」という格好のチャンスを得ます。しかし肝心なそこでリタイヤを喫し、残りのカナダ、メキシコと2勝を飾るもリントには及ばず「生きて、死んだドライバーに勝てず」の結果でチャンスを失い、その後前途多難なシーズンを送る形でF1から去っています。

R・アルヌー             78年〜89年 149戦参戦
7勝 PP18回 FL12回 表彰台22回 入賞42回
   1983年 3位              全15戦 1位3回 2位2回
この前のイギリスGPで姿を見せ、古舘伊知郎からは「妖怪通せんぼジジイ」という不甲斐無い呼び名で晩年親しまれた方です。何度も言ってますが、この方はフランス人ドライバーとして2番目に位置する戦績は持っています。グロージャンはまだ遠く及びません。
フォーミュラルノー、ヨーロッパF2でチャンピオンとなって1978年にマルティニからF1に参戦しています。フランス人1位のプロストは1980年デビューですから、プロストより先輩です。1979年から母国フランスのワークスであるルノーに移籍して信頼性が低いながらもターボエンジンと格闘しながら経験と実績を積み、1981年にはエースドライバーとしてプロストを従えている時代もありました。
キャリア最上位は実績を評価されフェラーリに移籍した初年となる1983年で、シーズン出足は3位2回で他リタイヤが目立ってあまり良くなかったものの、第8戦カナダGPを皮切りに優勝3回、2位2回と一気にランキングトップのプロストに詰め寄りました。しかし終盤2戦で無得点と失速、チャンピオンは犬猿の仲プロストでもなく終盤3戦で盛り返したピケにさらわれてしまう結果に終わります。それがチャンピオン獲得の最後のチャンスでした。晩年は再び母国コンストラクターのリジェで戦闘力を失い、周回遅れになる際に「無駄な悪あがき」を頻発するドライバーになってしまいました。
晩年の1989年に面白いコメントをしています。執拗なブロック走行に抗議したブーツェンに対して「悔しかったら7勝してみな」

J・P・モントーヤ    01年〜06年 94戦参戦
7勝 PP13回 FL12回 表彰台30回 入賞57回
   2002年 3位             全17戦 2位4回 3位3回
   2003年 3位             全16戦 1位2回 2位5回
こちらも比較的近年の惜しいドライバーの1人です。F1キャリアは今回の面々からみてひときわ短いです。F1参戦前の実績は十分、さらにはF1引退後も他カテゴリーで優勝を数々あげていることからも、腕が落ちたからF1を離れたのではなく「単にF1の水が合わなかった」ことは明白だったと思います。
1999年にインディカーのチャンピオン、2000年にはインディ500でも優勝して、2001年にウィリアムズからF1参戦します。2001年デビューは他にアロンソやライコネンといったドライバーと同期で「新人当たり年」と言われていましたが、経歴はその2人と比べても別格、デビュー年早々の第15戦イタリアGPで初優勝を遂げます。ハイスピードなモンツァが初優勝となるあたりがスピード狂のモントーヤらしいですね!
ランキング上位には早くも2年目の2002年に訪れます。ただしハッキネンが休養に入り敵無しの状態に入ったフェラーリ&M・シューマッハは当時のウィリアムズ程度の戦闘力ではモントーヤの尖りっぷりを持ってしても遠く及ばず、チームメイトのR・シューマッハと共に隙を突くことができませんでした。チームメイトがライバルの実弟ってこともやり難いですよね。そんなことに屈するモントーヤではありませんが(笑)翌2003年は怯み気味のM・シューマッハに対して2勝するも同期でマクラーレンのライコネンも好調でまたもやランキング3位に止まりました。ならば同期2人で倒してみようやとさらにスピードで上回るマクラーレンに移籍して挑む2005年には早々に「F1以外で怪我」をして戦線離脱、2006年は8戦残しの第10戦アメリカGPを最後にF1から離れてしまいました。ちょっと諦めが早過ぎるF1離脱となりましたが、モントーヤにとってはそれ以前に「F1ではなかった」のでしょう。


歴代の「無冠の帝王」をみていくと、総じて共通項があるように見えます。
   ・絶好なチャンスをモノにできなかった
   ・チームで「ナンバー1ドライバー」がいた
   ・ウカウカしていているうちの若手の台頭
   ・チームメイトやライバルと険悪になった
必ずしも全員ってわけでもありませんが、速いマシンを手にしても優勝を「許してもらえない」環境に置かれていたり「また次があるさ」みたいな状況になると、次がなかったりする。ビジネスや恋愛も似ていますね(笑)優勝やチャンピオンになりうる逸材はこれらの巡り合わせをうまく利用したり、それを打ち砕くセンスやタイミングも兼ね備えています。ドライバーはスポーツマンですからいざこざや対人トラブルは往々にしてあり得ます。そこもいかに上手くくぐり抜け、ドライバーやマシンの良し悪しだけでなく「チームと一体に」なっていかないと、ただ才能やセンスがあるだけでは獲得できないんだなということを知らしめられます。近年はドライバー差やマシン差がモノを言い、混戦が減ってしまっています。彼らのような「無冠の帝王」で終わるのは悲しい結果ですが、そうならないようドライバーはしっかりチャンスをモノにし、盛り上がるチャンピオンシップになることを祈っています。

「ボクちゃんはここに入らずに済みましたねー」
「私もちゃんと勝てる時に勝たせてもらったよ」
「あはは、オイラはさすがに無理そうだ(笑)」