今では見かけなくなったポルトガルも1980年代後半から90年代前半でF1が行われました。晩年はある人が度々「何か」見せてくれていましたよね。今回は次戦のオーストリアGPではなく、1989年の第13戦ポルトガルGP「第1弾」としてみていきます。
1989年はターボエンジンが禁止され、V8〜V12と気筒数に差はあるものの全車横並びで3.5ℓのNAエンジンに揃えられました。開幕戦ブラジルGPと第10戦ハンガリーGPでフェラーリのマンセルが2勝、第6戦カナダGPではウィリアムズのブーツェンが1勝した以外は全てマクラーレン2人が勝利を分け合っています。最多勝5勝をあげたセナはリタイヤも多くランキング2位、ランキングトップは4勝ながら2位も堅実に5回獲得するプロストでした。当時は有効ポイント制でしたのでセナがチャンピオン連覇するためには優勝もさることながら確実なポイントゲットを積み上げることが絶対目標となります。
ポールポジションはプロストに0.7秒、2番手のベルガーにも0.6秒の差を付けてセナが確実にモノにしました。
1 A・セナ(マクラーレン・H・GY)
2 G・ベルガー(フェラーリ・F・GY)
3 N・マンセル(フェラーリ・F・GY)
※GYはグッドイヤー
ポールポジションからスタートするということは、そのままの順位を維持するか抜かれるしか道はありません。スタートはセナの加速が鈍り、2番手のベルガーが気持ちよく前に出ます。さらに3番手マンセルにも並ばれて、しばらくしつこく追い立てるとスリップストリームを使われて早々とホンダV10で3位まで順位を落としてしまいます。それでも真のライバル、プロストよりは前です。
この日のマンセルはキレッキレでした。トップのベルガーの前に周回遅れが現れ始めると、ギャップを一気に詰めて周回遅れ2台もろとも一気にベルガーを含めた3台を抜いてトップに立ちます。
ここまでは我が主役だと猛威を振ってきたマンセルは40周目のピットで珍事を起こします。あれ?マンセルはピットクルーを越え左側にマシンをおさめましたが?!
どうやら上流側であるマクラーレンのピットクルーを避けるべく、所定の位置に誘導することができませんでした。ここでマンセルはどんな行動を取ったか?
リバースレンジにギヤを入れ、バックでピットに入庫です。ひとまずクルーは何事もなくタイヤ交換を行い、マンセルを送り出しはしましたが、、
オフィシャルは見逃しませんでした。黒旗失格です。本線はおろかピットレーンについても、マシンをバックさせてはならないのです。
その後もイケイケのマンセルは一度先行させたセナを煽り、いつでも狙える状態までもっていきます。
今日のマンセルはしつこいぞ、セナ!
黒旗提示されて3周目
セナ、譲らず。マンセル並ぶ!
あーやっちまった。。セナはグラベルへ。もちろんマンセルの勢いもグラベルで停止です。
ケンカになる前にマンセル早足に立ち去る。
セナは今シーズン終わったと悟るかようにたそがれる。
もちろんチーム首脳陣も黙っていません。まだフサフサしているロン・デニスがフェラーリのチェザーレ・フィオリオに食ってかかります。本来マンセルはこの周回に「いてはならない」ドライバーです。プロストより前を走る表彰台ドライバーとぶつかってリタイヤなどあるわけがない状況でした。
結局、相方の不祥事など全く知らず、シレッとベルガーがウィナー。
《決勝結果》
1 G・ベルガー(フェラーリ・F・GY)
2 A・プロスト(マクラーレン・H・GY)
3 S・ヨハンソン(オニクス・Fo・GY)
※Foはフォードエンジン
レース後のマンセルの会見と言い訳です。
10年近くF1に携わるベテランでピットレーンのバックは危険で違反だということを本当に知らなかったのでしょうか?!黒旗提示に気付かなかったとのこと。さすが荒法師!ちょくちょく「引退」という言葉を使って誠意を示してきます。これがマンセルです。翌戦スペインGPは出場停止処分となりました。
一方セナは
チャンピオン連覇の可能性がかなり厳しい、心なしか力がないです。
黒旗失格。走れる状況下で「ルール上」諦めなければならないというスポーツマンとしてかなり厳しい裁定ではありますが、他車を巻き添えにしてチャンピオン争いを引っ掻き回してはいけません。