久し振りに名車シリーズをアップしようと思います。皆さんはスーパーアグリF1チームを覚えていますか?!「純日本製F1コンストラクター」で話題になりましたよね。日本のコンストラクターはこれまでにホンダやトヨタ、コジマなど、無かったわけではありませんが、こんなにも日本に染まったコンストラクターもありませんでしたね。今回はその名の通り元ドライバー鈴木亜久里が立ち上げたれっきとしたコンストラクター、初年度2006年の「SA05,SA06」です。
《設計》
(セルジオ・リンランド)
(マイク・コフラン)
マーク・プレストン
ピーター・マックール
※SA05の種車となるアロウズA23のデザイナーを
《エンジン》V型8気筒・バンク角90度
排気量:2,396cc(推定)
《設計》
(セルジオ・リンランド)
(マイク・コフラン)
マーク・プレストン
ピーター・マックール
※SA05の種車となるアロウズA23のデザイナーを
カッコ書きにしました。
《外見》
《外見》
当初スーパーアグリは1年落ちとなる2005年型のB・A・R007もしくは同年のホンダRA106を流用する予定でいましたが、コンコルド協定に抵触するため使用できないという指摘を受けました。そこで何と屋外に静態保存されていた4年落ちに相当する2002年に使用したアロウズA23を使って、2006年版にカスタマイズする必要が出てしまいました。
テスト走行を行ったSA05なる白塗りのマシンはA23そのものですね。
同じF1マシンとて4年も時が経てば、仕様もレギュレーションも異なってきます。まずマシンの要である「エンジン」から大きく異なりました。A23が搭載していたのはV型10気筒のフォード・コスワースCR3でしたが、ギヤボックスはそのまま使用する選択をします。しかしこの2006年から規定されたV型8気筒のホンダRA806Eという「サイズが異なる」エンジンを搭載するため、エンジン自体をマウントで20mmも嵩上げするという「マシンバランス云々よりレギュレーションに無理矢理合わせ込む」という無茶苦茶な形を採らざるを得ず、それによって参戦発表からわずか150日で整えることとなりました。戦績はこの後みますが、そりゃまともに戦えるわけがないと、この時点で察しがつきます。
第12戦ドイツGPからようやく「正式な2006年型」SA06を投入。2006年に適合するホンダのギヤボックスを搭載することでエンジンの嵩上げマウントを取り除き「適正な位置」となって低重心化が図られました。またリヤサスペンションもスチール製からカーボン製となり、徐々に2006年規格に変わっていきます。
ハイノーズから細く伸びるフロントウィングのステー。そしてゼロキールが主流になる中、A23の特徴でもある大型ツインキールを少しずつトレンドに近付けるかのように段階的に短くし、第14戦トルコGPから進化系のSA06Bを名乗り、ゼロキールに変貌を遂げる姿勢は「限られた資金の中、出遅れを懸命に対応していく努力」が見受けられました。
カラーリングは日本のナショナルカラーでもある白を基調とし、日の丸にも使用される赤でロゴマークにも使用される造形でマシンにアクセントを加えた躍動感あるものとなっています。日本を象徴する「歌舞伎のメイク」みたいですね。SA05は白が前面に表れた配色でSA06はノーズ上部が赤で塗られているため、識別は容易です。
肝心なスポンサーはソフトバンクをメインとし進めていたものも破談となりますが、大手広告代理店の電通によって小口スポンサーを積み重ねることで進められました。マシンにはアデランスやアサヒ飲料、朝日ソーラー、全日空、英会話のECC、また亜久里でお馴染みのオートバックスなど著名な日本ブランドがマシンに「粛々と」入っています(笑)
《シャシー》SA05、SA06とも
全長:4,666mm
全幅:1,800mm
全高: 950mm
最低車体重量: - kg
燃料タンク容量: - ℓ
ブレーキキャリパー:AP
ブレーキディスク・パッド:ヒトコ
サスペンション:フロント プッシュロッド
リヤ プッシュロッド
ホイール:BBS
タイヤ:ブリヂストン
《シャシー》SA05、SA06とも
全長:4,666mm
全幅:1,800mm
全高: 950mm
最低車体重量: - kg
燃料タンク容量: - ℓ
ブレーキキャリパー:AP
ブレーキディスク・パッド:ヒトコ
サスペンション:フロント プッシュロッド
リヤ プッシュロッド
ホイール:BBS
タイヤ:ブリヂストン
《エンジン》V型8気筒・バンク角90度
排気量:2,396cc(推定)
最高回転数:19,600rpm以上(推定)
最大馬力:544馬力(推定)
スパークプラグ:NGK
燃料 / 潤滑油:エネオス / カストロール
《ドライバー》
No.22 佐藤琢磨(全戦)
No.23 井出有治(第1〜4戦)
フランク・モンタニー(第5〜11戦)
山本左近(第12〜18戦)
《戦績》
0ポイント コンストラクター11位
(10位1回、12位1回、13位2回、14位1回ほか)
ポールポジション0回
エースドライバーには表彰台登壇歴もある佐藤琢磨を起用。ワークスホンダに乗れなかった悔しさを存分にぶつけます。また日本でならし、フランスにも渡った経験を持つ井出有治を並べて「F1史上初の日本人コンビ」として最高峰カテゴリー参戦となりました。チーム代表、エンジン、ガソリン、タイヤに留まらずドライバー2人まで日本人という、まさに「日本ブランド尽くし」のラインナップ。
最大馬力:544馬力(推定)
スパークプラグ:NGK
燃料 / 潤滑油:エネオス / カストロール
《ドライバー》
No.22 佐藤琢磨(全戦)
No.23 井出有治(第1〜4戦)
フランク・モンタニー(第5〜11戦)
山本左近(第12〜18戦)
《戦績》
0ポイント コンストラクター11位
(10位1回、12位1回、13位2回、14位1回ほか)
ポールポジション0回
エースドライバーには表彰台登壇歴もある佐藤琢磨を起用。ワークスホンダに乗れなかった悔しさを存分にぶつけます。また日本でならし、フランスにも渡った経験を持つ井出有治を並べて「F1史上初の日本人コンビ」として最高峰カテゴリー参戦となりました。チーム代表、エンジン、ガソリン、タイヤに留まらずドライバー2人まで日本人という、まさに「日本ブランド尽くし」のラインナップ。
序盤は先述のような「付け焼き刃」が露呈され、開幕戦バーレーンGPはエース佐藤がポールのM・シューマッハから6秒落ちとなる20番手、井出は9秒近く離された21番手でした。22人参戦とはいえ、予選でクラッシュによりタイムを出せなかったマクラーレンのライコネンを除外すれば大きく大きく離された「ダントツのビリ」と、ほろ苦いを通り越し「激苦」なデビューランとなりました。鈴木自身もこれを望んでいないのは当然、ただこれがF1の現実でした。決勝は佐藤がトップから4周遅れの18位完走、井出は中盤にリタイヤで終えます。
それでも佐藤は開幕から3戦連続で完走を果たし、井出も第3戦オーストラリアGPで佐藤に続く13位で初完走するも、以前このブログでも振り返ったこともある第4戦サンマリノGPで「あの事件」が起きます。予選22番手でスタートした井出は20番手スタートだったMF1のアルバースのマシンを横転させる接触を起こし、リタイヤさせてしまいます。
それが大きな引き金となり井出の「F1ドライバーとして未成熟」と指摘され、レースドライバーからの降格。さらにはシーズン中に「スーパーライセンス剥奪」という前代未聞の裁定が下るという珍事を生みました(これには諸説あり、単に井出のドライビング能力不足というだけではなく「チーム内でマシン自体の性能差があったのでは?」という意見もありました)
ちなみに、翌第5戦ヨーロッパGPからは井出に代わりサードドライバーだったモンタニーを起用しますが、シーズン終了まで井出はチームに所属していました。その後、マクラーレンに端を発する流行のチムニーダクトを形状変更し、シーズン後半戦となる第12戦にようやくSA06を投入して先述の低重心化が図られます。それと同時に日本で活躍する山本左近をモンタニーから代えて起用し、再び日本人2人体制でグリッドに並びました。第14戦トルコGPよりSA06Bとすると、日の浅い山本も予選で佐藤を上回る位置につけ、決勝も完走を果たせるまでに成長していきました。チームの予選最上位は佐藤の第18戦アメリカGPの18位、決勝最上位は最終戦ブラジルGPでの佐藤の10位完走となっています(当時の入賞は8位まで)
当時この話題を聞いた時、鈴木亜久里には大変失礼ですが「本当に大丈夫?!赤っ恥に大赤字をかまさないといいけど、、」というのが率直な印象でした。もしかしたらmiyabikun以外にもそう思った方も少なくはないと、思いたい(笑)やる気に満ち溢れた佐藤琢磨の行く末を「誰か」に押し付けられたのかな。いずれは「どこか」のセカンドチームに呑み込まれてしまうのではないか、と応援より心配や半信半疑な思いを覚えています。しかし、出始めは絵に描いたような戦績とラップペースにはなりましたが、日に日にそのギャップは縮まり、最終戦には予選でトップから2.6秒落ちまで近付きました。また参戦2年目の翌2007年の第4戦スペインGPでは佐藤が8位入賞を獲得するなど、成長する様もよく伝わりました。スポンサーマネーを踏み倒されるなど、金策には非常に苦労し、残念ながら入賞からちょうど1年後の2008年スペインGPを最後に涙の撤退となるわけですが、よくぞ短期間に、それも日本ブランドを掲げて走ってくれたと、例えわずかな時間でも「夢を叶えてくれてよかった」と思えるようになりました。これから先もF1は長く続くものだと思いたいですが、ここまで「日本」を前面に出したチーム、コンストラクターが現れることはないでしょう。日本のF1ファンにとって忘れることはない立派なF1史の一つです。