F1 えきぞーすとのーと

よくあるニュースネタやこ難しいテクニカルな話ではなく、メインは予選や決勝のTV観戦したそのものを個人的観点から綴るF1ブログです。  また、懐かしのマシンやレースを振り返ったり、記録やデータからF1を分析。その他ミニカーやグッズ集めも好きなので、それらを絡めつつ広く深くアツくF1の面白さやすごさを発信し、楽しんでもらえたらいいなと思っています。

タグ:プライベーター

寒いこの季節になると、訃報が続くように感じます。またF1界に悲しい知らせが入ってきました。プライベートチームを最近まで指揮したウィリアムズの創始者、フランク・ウィリアムズが亡くなりました。不謹慎に聞こえてしまうかもしれませんが、近年名前は残しつつも表舞台から身を引き、2016年には体調を崩して入院された頃、miyabikunはどこか嫌な予感がしていました。ウィリアムズはF1界において多大な存在感と影響を残してきました。この名門チームを語り、振り返るにはスペースがとても足りないくらいですが、かい摘みながらその功績を讃え、偲びたいと思います。

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フランク・ウィリアムズ
 1942年4月16日生まれ(イギリス)
 1966年 フランク・ウィリアムズ
      ・レーシングカーズ設立
 1969年 F1参戦開始
 1976年 長女クレア誕生(後のチーム副代表)
 1977年 ウィリアムズ・グランプリ
      ・エンジニアリング設立
 1979年 F1初勝利
 1980年 F1チャンピオン獲得
 1986年 交通事故により下半身不随となる
 1987年 大英帝国勲章CBE(コマンダー)受勲
 1994年 セナの事故により起訴、無罪判決
 1999年 ナイト・バチェラー(下級騎士)叙勲
 2012年 チーム取締役から退任
 2013年 妻と死別(クレアの母)
 2020年 チーム売却を決断、代表を退任
 2021年11月26日没(79歳)

フランク・ウィリアムズ(以下フランク)は1942年にイギリス空軍に所属する父と教員の母の間に生まれました。学生時代に車に魅了され、自らドライバー、またメカニックを経験しながらコツコツと資金を集め、24歳となる66年に「フランク・ウィリアムズ・レーシングカーズ」なるチームを設立します。F1の下位カテゴリーであるF2に参戦しながらキャリアを積むと、69年にはブラバムからBT26Aを購入し、いよいよF1の門を叩きます。
70年は盟友でありチームのドライバーであるピアス・カレッジと共にイタリアのデ・トマソのマシンでF1を戦いますが、第5戦オランダGPでマシンが炎上、カレッジは命を落としてしまいます。しかしその後もレースを諦めることはせず、イギリスの名門マーチからマシンを購入するなど参戦し続け、74年のマシンには現在も継承される「FW」という名が付けられるようになりました。ところが76年シーズンからカナダの石油王であるウォルター・ウルフがチームの株式を取得し、チーム名に「ウルフ」が加わることとなります。さらにマーチやヘスケスでマシン設計に携わってきたハーベイ・ポスルズウェイトが加入すると徐々にフランクの立場が弱くなり、76年シーズンを最後にフランクはパトリック・ヘッドと共にチームを去る決断をします。
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フランクとヘッドは77年より新たに「ウィリアムズ・グランプリ・エンジニアリング」を設立(現存するコンストラクターである「ウィリアムズ」の起源はココ)将来的には自社でマシンを組み上げること目標に一年目はひとまずマーチから761を購入。ドライバーはスイス人ドライバーのロリス・ケッセルの一人体制で第14戦イタリアGPに臨みますが、結果は予選不通過というほろ苦い再出発となりました。翌78年にはヘッドの手により自社製マシン第一号にあたる「FW06」を完成させ、F1経験のあるジョーンズのドライブによりワトキンスグレンでの第15戦アメリカ東GPで2位表彰台を獲得します。そして3年目の79年にはベテランドライバーのレガッツォーニを招き、チームの地元である第9戦イギリスGPで初優勝を遂げました。F1参戦10年の歳月を経てようやく優勝を味わったウィリアムズの勢いは止まらず、80年にはジョーンズ5勝、ロイテマン1勝の計6勝を挙げてダブルチャンピオンを獲得。プライベートチームでトップチームへの仲間入りを果たしています。
80年代のF1はエンジンによる大出力マシンの時代に突入していました。82年はわずか1勝ながらK・ロズベルグによるチーム2回目となるドライバーズチャンピオンを獲得したものの、ルノーをはじめとしたターボエンジン勢に劣るウィリアムズは83年シーズン終盤に長年愛用してきたフォードDFVからホンダV6ターボエンジンに換装。また日本の大手カメラメーカーのキヤノンのスポンサーを得ることに成功し、そこからマシンの戦闘力が飛躍的に増しました。パワフルなマシンとビッグスポンサーの存在がトップドライバーを集めることにも繋がり、以降はピケやマンセルといった経験豊かなドライバーを採用できるようになります。ただそれと同時期の86年3月にフランクはフランスで車を運転中に事故に遭い、一命は取り留めたものの脊椎を損傷してしまい、以降は下半身付随の車椅子生活を余儀なくされました。
マクラーレンと並ぶ「プライベーターのトップチーム」に成り上がったチームにも悲劇が襲いました。セナをシートにおさめた94年の第3戦サンマリノGP決勝で死亡事故が発生。フランクをはじめチーム上層部はその責任を問われ、殺人罪で起訴されてしまいます。長期間の裁判を経てフランクらの無罪判決が下り、さらにこの時の事故は以降の「F1の安全性」を再認識する大きな転換を迎えることとなりました。この出来事に屈することなく、エンジンサプライヤーに移行したルノーの「ワークス待遇」を得て技術躍進を続け、若き才能を積極起用してチームの位置付けは変わらない姿勢を貫いています。
90年代末期にはルノーがF1から完全撤退が決まり、以降は「場繋ぎ的な」立場を強いられます。ドイツの自動車メーカーであるBMWとの提携するまでの間はルノーエンジンをカスタマイズして参戦したことにより、ライバル達に一気に追い抜かれ、99年はランキング5位に陥落しています。2000年にようやくBMWとタッグを組み、再び表彰台の中央に立つ位置まで復帰はしたものの、時すでに遅し、フェラーリとM・シューマッハは手の届かない位置までは引き離されてしまいました。BMWも独立し、再び露頭に迷うことになった近年はトヨタやルノーと度々サプライヤーを変えて参戦しますが、以前のようなタバコ広告などのビッグスポンサーやワークス扱いの開発に頼れず低迷の一途を辿ります。ウィリアムズ自身も歳を増し、代表には名前を残しつつも現場は娘のクレアを副代表とし、フランクは隠居の状態となります。
フランクは2016年9月に肺炎のため長期入院。回復の後に退院はしたものの、肝心のチームは「ドライバーを雇う時代」から「ドライバーのスポンサーに支えられる時代」に変わりつつあり、昨年2020年第8戦イタリアGPを最後にアメリカのドリルトン・キャピタルがチームを買収。チーム名こそ残しますが、フランクをはじめとしたウィリアムズ家がF1から完全に撤退し現在に至ります。そしてフランクはその一年ちょっと過ぎた先日11/26に79歳で生涯に幕を閉じました。

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これまで長いようでこれでも端折りながらフランクとチームの略歴を振り返りました。せっかくチームを設立しても、巨大な騎乗に乗っ取られ、また一から再スタートを切って、強力なエンジンやスポンサーにありつけても、自身が怪我により不自由な身体になったり、大切なチームメイトや協力タッグを組んだメーカーの撤退に遭い、それが不の連鎖を招くなど、とても波瀾万丈な代表だったと思います。世界最高峰の、また巨大企業相手のF1において、長年に渡り「個人経営」で参戦を続けられたのもひとえに「フランクのレースに対する闘志」があったからだと思っています。

ここからは上記と重複する部分がありますが、チームの戦績を並べ、チームのバイオリズムをいつものようにグラフ化してみました。戦績は現在(といっても現在はチーム経営から退いていたわけですが)のウィリアムズ直系にあたる1977年から2020年(+2021年)の期間の戦績と主な所属ドライバーを並べます。

《各シーズンの戦績とエンジン、ドライバー》
 77年   - 位    0戦   0勝 マーチ761 フォード
  ケッセル
 78年   9位 全16戦   0勝 FW06   フォード
  ジョーンズ
 79年   2位 全15戦   5勝 FW06,07 フォード
  レガッツォーニ、ジョーンズ
 80年   1位 全14戦   6勝 FW07,07B フォード
  ジョーンズ★、ロイテマン、キーガーほか
 81年   1位 全15戦   4勝 FW07C   フォード
  ジョーンズ、ロイテマン
 82年   4位  15戦   1勝 FW08      フォード
  ロイテマン、K・ロズベルグ★、デイリーほか
 83年   4位 全15戦   1勝 FW08C,09 フォード
  K・ロズベルグ、ラフィ
 84年   6位 全16戦   1勝 FW09,09B ホンダ
  K・ロズベルグ、ラフィ
 85年   3位 全16戦   4勝 FW10      ホンダ
  K・ロズベルグ、マンセル
 86年   1位 全16戦   9勝 FW11      ホンダ
  ピケ、マンセル
 87年   1位 全16戦   9勝 FW11B    ホンダ
  ピケ★、マンセル、パトレーゼ
 88年   7位 全16戦   0勝 FW12   ジャッド
  マンセル、パトレーゼ、シュレッサーほか
 89年   2位 全16戦   2勝 FW12C,13 ルノー
  パトレーゼ、ブーツェン
 90年   4位 全16戦   2勝 FW13B    ルノー
  パトレーゼ、ブーツェン
 91年   2位 全16戦   7勝 FW14      ルノー
  マンセル、パトレーゼ
 92年   1位 全16戦 10勝 FW14B    ルノー
  マンセル★、パトレーゼ
 93年   1位 全16戦 10勝 FW15C    ルノー
  プロスト★、D・ヒル
 94年   1位 全16戦   7勝 FW16,16B ルノー
  A・セナ、D・ヒル、クルサード、マンセル
 95年   2位 全17戦   5勝 FW17,17B ルノー
  D・ヒル、クルサード
 96年   1位 全16戦 12勝 FW18      ルノー
  D・ヒル★、J・ヴィルヌーブ
 97年   1位 全17戦   8勝 FW19      ルノー
  J・ヴィルヌーブ★、フレンツェン
 98年   3位 全16戦   0勝 FW20      メカクローム
  J・ヴィルヌーブ、フレンツェン
 99年   5位 全16戦   0勝 FW21      スーパーテック
  R・シューマッハ、ザナルディ
 00年   3位 全17戦   0勝 FW22      BMW
  R・シューマッハ、バトン
 01年   3位 全17戦   4勝 FW23      BMW
  R・シューマッハ、モントーヤ
 02年   2位 全17戦   1勝 FW24      BMW
  R・シューマッハ、モントーヤ
 03年   2位 全16戦   4勝 FW25      BMW
  R・シューマッハ、モントーヤ、ジェネ
 04年   4位 全18戦   1勝 FW26      BMW
  R・シューマッハ、モントーヤ、ジェネ
 05年   5位  18戦   0勝 FW27      BMW
  ハイドフェルド、ウェバー、ピッツォニア
 06年   8位 全18戦   0勝 FW28      コスワース
  ウェバー、N・ロズベルグ
 07年   4位 全17戦   0勝 FW29      トヨタ
  ヴルツ、N・ロズベルグ、中嶋一貴
 08年   8位 全18戦   0勝 FW30      トヨタ
  N・ロズベルグ、中嶋一貴
 09年   7位 全17戦   0勝 FW31      トヨタ
  N・ロズベルグ、中嶋一貴
 10年   7位 全19戦   0勝 FW32      コスワース
  バリチェロ、ヒュルケンベルグ
 11年   7位 全19戦   0勝 FW33      コスワース
  バリチェロ、マルドナド
 12年   8位 全20戦   1勝 FW34      ルノー
  マルドナド、B・セナ
 13年   9位 全19戦   0勝 FW35      ルノー
  マルドナド、ボッタス
 14年   3位 全19戦   0勝 FW36      メルセデス
  マッサ、ボッタス
 15年   3位 全19戦   0勝 FW37      メルセデス
  マッサ、ボッタス
 16年   5位 全21戦   0勝 FW38      メルセデス
  マッサ、ボッタス
 17年   5位 全20戦   0勝 FW40      メルセデス
  マッサ、ストロール、ディ・レスタ
 18年 10位 全21戦   0勝 FW41      メルセデス
  ストロール、シロトキン
 19年 10位 全21戦   0勝 FW42      メルセデス
  クビカ、ラッセル
 20年 10位 全17戦   0勝 FW43      メルセデス※
  ラッセル、ラティフィ、エイトケン
 21年   8位  20戦   0勝 FW43B    メルセデス※
  ラッセル、ラティフィ

 ★はドライバーズチャンピオン獲得者
 ※20年第9戦以降、フランクとチームは無関係

ウィリアムズ45年の歴史には数多くのドライバーが関わりを持ち、7人が一回ずつのドライバーズチャンピオンを獲得しました。それらチャンピオンの中には複数回チャンピオンを獲得した者もいますが、あくまでウィリアムズでは一回に止まっています。これはトップチームを経験した中で「ウィリアムズならではの特徴」といえる点かもしれません。もちろんチームオーダーの出されたレースやシーズンはあったものの、フランクは基本的に「チーム内で序列を与えない」考え方を貫きました。それが時にはドライバーの野心をかき立てることもあったでしょうし、不満を感じてチームを離脱するといったケースを生みました。
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各シーズンのコンストラクターズランキングをグラフ化してみました。色の塗り分けはコンストラクターズチャンピオンを獲得したシーズンを赤に、さらにドライバーズチャンピオンを獲得した年を黒く縁取りして強調しました。
スタート直後から上々の出来で急成長をみせ、80年代初頭に二年連続で頂点を極めました。その後ホンダエンジンを搭載した3年目、85年からグラフは上向きとなり、86,87年を連覇。ところがホンダを「横取り」された88年に大暴落(一方で「横取り」したチームは全16戦15勝の偉業を達成)ワークス活動を止めてサプライヤーに転じたルノーと「ワークス待遇」を得ると、またグラフは右肩上がりに伸び、95年を除いた前後5回でチャンピオンに輝いています。
今回敢えてグラフにエンジンサプライヤーを記載したのには理由があって、ウィリアムズの戦績はエンジンサプライヤーに多大な影響を与えられてきたことが実にわかりやすく表れています。初期のフォードDFVはいわば「ワークス以外のチームの御用達」みたいな形で多くのチームが搭載していました。ところが新参者の自動車メーカー(ここでいうホンダ)がエンジンのみの提供で現れると、技術力の挑戦と言わんばかりにチームと一体化した開発や試行錯誤を繰り返して名声を得るようになります。急成長した工業国「日本ブランド」でこうも成績が向上するというのは、我々にとって誇らしいことですね。そしてそのホンダを失った途端に、チャンピオン争いを演じたマンセルは変わらず残留するも成績がガクン落ち込んでしまう。フランクにとっては「やられた感」が大きかったのではないでしょうか。
その直後の89年からNAエンジンでサプライヤーとなったルノーと単独契約し、以降供給先が増えても「ウィリアムズはルノーのワークス扱い」を貫き、一時期ベネトン&M・シューマッハに手は焼くも97年までは最強を誇りました。ただそのルノーが再びサプライヤーからも撤退すると、ウィリアムズはルノーエンジンを改良して戦うことを選んだ結果、その間に急成長したメルセデスエンジンに最速の座を奪われてしまいました。皮肉にもまたも相手は同じプライベーターのマクラーレンという(笑)2000年代に突入する頃、迷走するウィリアムズに「BMWがF1復帰」という希望の手が差し伸べられます(本当はウィリアムズを乗っ取る目論見だったか?!)まだまだ若手のR・シューマッハとモントーヤの組み合わせで、衰退するマクラーレンこそ食うことができましたが、フェラーリには太刀打ち出来ずにBMWもザウバーに移行し、それを最後に成績は降下に向かってしまっています。
ウィリアムズの戦績からもわかりますが、近年ではマクラーレンとメルセデス、ザウバーとBMW、また現在のレッドブルとホンダの関係のように、ワークスではないプライベートチームはエンジンメーカーとタッグを組めることが成績向上の最も近道であることは間違いありません。フランクもその考えを率先して取り組んできたものの、それを奪われた途端に成績が後退し、露頭に迷う苦しい時期を何年も過ごしました。
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続いて各シーズンの勝率をグラフ化しています。色の塗り分けは先程の折れ線グラフと同様です。勝利数でなく勝率としたのは「シーズンによってレース数が異なる」ためです。
ウィリアムズといえば92年のマンセルとFW14Bの圧倒的な強さが印象的ですが、実は勝率は(勝利数とも)96年のヒルとヴィルヌーブの「F1二世コンビ」によるFW18が歴代最高位となります。シーズン全16戦で12勝を挙げ、勝率は75%を誇りました(ちなみにこちらも「F1二世コンビ」となったN・ロズベルグと中嶋は0勝の勝率0%)やはり先程のポイントランキングと似たような波形となり、ホンダとタッグを組んだ80年代中盤とルノーとの90年代がサミットとなります。BMWでも2003年はシーズンの1/4にあたる4勝を挙げましたが、ライバルが強過ぎました。近年は12年のルノー第二期でマルドナドが1勝していますが、それを最後に優勝が無くなってしまっています。こういうグラフにして改めて思うのは、同じ1勝でも82年のK・ロズベルグがチャンピオンを獲得したのは奇跡的な快挙だったということです。勝率はたったの6.7%、コンストラクターズ4位でドライバーズチャンピオン獲得なんて、今後二度と無いでしょう。トヨタとのタッグで1勝してほしかったですね。

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《miyabikunの個人的なフランクの印象と評価》
話題が追悼するフランクへのものからチーム全体のことへと脱線してしまいましたが、最後にmiyabikunの個人的印象を書き綴りたいと思います。
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素晴らしいと感じた点は「勝利への執着と飽くなきこだわり」です。miyabikunが観始めた頃には既に車椅子でのシーンばかりであり、印象としては「いつも難しい顔してレースを見守る姿」が残っています。喜怒哀楽の中でも特に「怒」と「哀」の表情がカメラで捉えられ、スポーツというよりかは「折檻」しているように見えてしまうこともありました。冷徹であるとよく例えられ、ドライバーとの確執も時折みられたものの、F1を「一つのスポーツであり、また一つのビジネスである」として捉えていた指揮者の一人のように感じました。プライベートチームはご存知の通り「個人事業者」ですから、スポンサーを集め、技術を買い、またよい人材やドライバーを引き抜いて勝ち残っていくしか方法がありません。それを上手くやりこなし、短期間でトップチームに成り上がったのは素晴らしいの一言です。ウィリアムズといえばハイテクデバイスによる飛躍も印象的でした。技術力や資金の潤沢なワークスでなく、プライベートチームがそれを秘密裏に研究し、見事に成功させた出来事は後世にも伝わる貴重なF1の歴史の一つです。
一方で故人をあまり悪くは言えませんが、いいことのそのまま裏返しが悪いこととしても繋がり、チームの成績や存続の足かせになったことも事実です。勝ちにこだわるあまり、ドライバーやスタッフの契約では揉め事を起こし、勝利から遠退いたこともありました。近年は優勝はおろか入賞することも至難の業となってしまったチーム。世の中の流れやエンジンなどの外的要因もあり、全てがフランクの考えや指揮が悪かったわけではありませんが、下降線を辿ることになったきっかけを考えてみると、そもそもは96年限りで移籍する道を選んだヒル、そしてニューウェイの離脱とルノーエンジン撤退で歯車が大きく狂ったのではないかと思いました。その後目論見通りBMWとのタッグを組んだものの、ライバルは手の届かない領域となり成績不振、さらにビッグスポンサーの喪失などで一時期は序盤にも書いた「ドライバーを雇う時代」「給料無しでも乗りたい」というチームから「ドライバーのスポンサーに支えられる時代」へと転換せざるを得ない状況を招いてしまいました。名門チームがみっともないとも言えますが、一つの判断ミスが複数のミスに連鎖し、負のループから抜け出せなくなってしまいました。外部の者がタラレバを後から言うことは容易いかもしれませんが、実際にF1チームを経営する立場となれば、その判断や方向性の決定はなかなか難しいものだと思います。そんなウィリアムズもフランクが撤退した後もまだ「名ばかりのチーム名」は残っていますし、今シーズンは運も強みに入賞を果たすことができたのは、フランクにとっての朗報だったと思います。まだ今シーズンは終了していないものの、その結果はフランクの目や耳に届いているといいのですが。そして何より、フランクが存命のうちにチームを引き払うことができたのも個人的にホッとしています。フランクにすれば、娘クレアが引き続きチームを存続できれば何よりだったでしょうが、金銭的にもひっ迫した状態のまま息絶えるのも親として辛かったと思います。
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いいところも悪いところも引っくるめてウィリアムズ、フランクは「F1の一時代」を築き、立派に戦死したと言っていいと思います。これからのF1も遠いところから苦虫な表情で見守ることでしょう。エキサイティングなレース、素晴らしいバトルやマシンを見せてくれてありがとう。そして正しく「命懸けのF1運営」お疲れ様でした。心よりご冥福をお祈りします。

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F1のチーム(コンストラクター)はワークス(自動車メーカー)とプライベーターと呼ばれる個人事業者や自動車業界でないものに大きく分かれます。

現在のワークス
    フェラーリ
    メルセデス
    ロータス(2016年からルノー)
過去のワークスには、、
    アルファロメオ
    クーパー
    ジャガー
    トヨタ
    ポルシェ
    ホンダ
    マセラッティ
    BMW(ザウバー)            など

自動車メーカーからの参戦は、メーカーの技術力の披露、市販車へのフィードバック(実際にはされていないものやその逆でF1には許されない技術や製品もありますが)であり、最たる目的は全世界で行われ多くの視聴者を前にした「広告」です。またメーカーでありながらマシンは作らなくても、ランボルギーニやヤマハといったエンジンのみを製造・販売することで参戦していたメーカーもあります。

一方プライベーターは自身で車を作る技術は持っていなくても、経験者を募ってチームを形成し、エンジンやシャシーをメーカーから買って参戦しています。目的は企業系ならばメーカー系と同様に「広告」であったり、個人事業者の場合は、、自己満?(失礼)いやレース参戦を生業としている方達になるのでしょうか。

現在のプライベーター
    マクラーレン(最近はワークスとも)
    ウィリアムズ(個人事業者)
    レッドブル、トロ・ロッソ(飲料業界)
    ザウバー(個人事業者)
過去のプライベーターには、、
    アロウズ(個人事業者)
    ザクスピード(個人事業者)
    ジョーダン(個人事業者)
    ティレル(個人事業者)
    トールマン(個人事業者)
    フットワーク(運送業界)
    ベネトン(アパレル業界)
    ミナルディ(個人事業者)
    リジェ(個人事業者)
    ローラ(繊維業界)
    B・A・R(個人事業者)
    BRM(個人事業者)         など

傾向としてはどちらかというとワークスの方が技術力やスポンサーの有無などもあってかコンストラクターズチャンピオンを獲得することが多い気がします。とはいえ、プライベーターも奮闘し、近年ではレッドブルや老舗のウィリアムズなどプライベーターでもチャンピオンを獲得しているところもあります。


プライベーターにはチャンピオンを経験した元ドライバーも歴代に何名かいます。野球でよく使われる「名選手、名監督にあらず」という言葉がありますが、F1の世界は実際どうだったのでしょう。今回はレーサー時代の経歴と監督になってからの経歴をみてみたいと思います。



ジョン・サーティース
    参戦数111(13年参戦)
    優勝6回 表彰台24回 
    ポール8回 ファステストラップ11回 
    チャンピオン1回

    →サーティース
       参戦数118(9年参戦)
       優勝0回 表彰台2回 
       ポール0回 ファステストラップ3回 
       チャンピオン0回

1970年にマクラーレンの型落ちマシンに自身の名を冠してスタート。翌年1971年からは3台で参戦し、ペイドライバーをも確保し活躍しましたが、資金繰りに苦しみ一時期はコンドームメーカーをスポンサーにつけたため、母国イギリスのF1中継が無くなる珍事もあったようです(笑)
日本人初のF1ドライバーである高原敬武が1976年の第16戦日本GPで乗ったのはサーティースのマシンでした。



グラハム・ヒル
    参戦数175(18年参戦)   
    優勝14回 表彰台36回 
    ポール13回 ファステストラップ10回 
    チャンピオン2回

    →エンバシー・ヒル
       参戦数10(1年参戦)
       優勝0回 表彰台0回 
       ポール0回 ファステストラップ0回 
       チャンピオン0回

デーモン・ヒルのパパ、グラハムのチームです。昔過ぎて現役を知りませんが、晩年にシャドウやローラからマシンを購入し、最後に自社製シャシーGH1で自らドライブするマシンを駆りました。しかし自社製デビューレース1975年の第4戦スペインGPでチームメイトのR・シュトメレンのクラッシュで観客4人を死亡させてしまいます。
翌年の1976年用マシンGH2をテストするためにフランスに自ら操縦する軽飛行機で向かった帰りゴルフ場に墜落し、ヒルとチームメイトのT・ブライズとともに命を落としてしまいます。我がチームと偉大なチャンピオンが結果を残す前に運命を共にしました。


エマーソン・フィッティパルディ
    参戦数144(11年参戦)
    優勝14回 表彰台35回 
    ポール6回 ファステストラップ6回 
    チャンピオン2回

    →コパスカー・フィッティパルディ
       参戦数104(8年参戦)
       優勝0回 表彰台3回 
       ポール0回 ファステストラップ0回 
       チャンピオン0回

兄ウィルソンと弟エマーソンとで設立したチームです。実は参戦前からこの兄弟はカートや市販車を改造するビジネスもこなしていたとのこと。
序盤はコパスカーという名で1975年に兄ウィルソン自らドライブする形でデビューします。翌1976年から弟エマーソンにドライバーをスイッチ、入賞や表彰台はあったもののコパスカーが撤退してしまいます。1980年から名を冠したフィッティパルディに改称し、フェラーリをも上回る結果も出しました。が、翌年からの低迷で借金を多く抱えたまま撤退する形に。


ジャッキー・スチュワート
    参戦数99回(9年参戦)
    優勝27回 表彰台43回 
    ポール17回 ファステストラップ15回 
    チャンピオン3回

    →スチュワート・グランプリ
       参戦数49回(3年参戦)
       優勝1回 表彰台5回 
       ポール1回 ファステストラップ0回 
       チャンピオン0回

歴代チャンピオンが自らのチームで参戦する者が多い中、近代のスチュワートは当初からオーナーとしての参戦でした。フォードのマシンを白でまとい、スチュワートのトレードマークでもあるタータンチェックの帯をかけ、デビューイヤーの1997年から表彰台を獲得するなど、幸先良いスタートでした。
歴代先輩達がなしえなかった勝利は参戦3年目のジョニー・ハーバートによってもたらされこともあってコンストラクターズ4位で終えるも、それが残念ながら最後の年。再びフォードに身を売り翌年からは緑のジャガーに化けました。もしフォードに売却しなければ、、もしかしたら名コンストラクターになったかならなかったかも?!


アラン・プロスト
    参戦数202回(13年参戦)
    優勝51回 表彰台106回 
    ポール33回 ファステストラップ41回 
    チャンピオン4回

    →プロスト・グランプリ
       参戦数83回(5年参戦)
       優勝0回 表彰台3回 
       ポール0回 ファステストラップ0回 
       チャンピオン0回

現役時代にも何度かチームオーナー計画があったものの、実現したのは引退した後の1997年、リジェを買収し実現しました。フランス製のプジョーエンジンを搭載し、車体はフレンチブルー。ドライバーはオリビエ・パニスとフランス色満載でデビューの予定でしたが、初年度はプジョーを使うジョーダンから横槍が入り、初年度は無限ホンダエンジンと中野信治の組み合わせで参戦となります。
早く欲しい母国のプジョーエンジン。ミーティングはフランス語でかわされるなど無限ホンダとセットの中野信治は日本ブランドには非常に差別があったのは有名な話です。プジョーにこだわり、無限ホンダを手放すと成績も芳しくなく、以降プジョーも撤退、型落ちフェラーリエンジンを使用せざるをえなくなり、最後は破産。チャンピオン経験者最後の悲しい末路です。


〜オマケ〜
鈴木亜久里
    参戦数88回(5年参戦)
    優勝0回 表彰台1回 
    ポール0回 ファステストラップ0回 
    チャンピオン0回

    →スーパーアグリF1
       参戦数39回(3年参戦)
       優勝0回 表彰台0回 
       ポール0回 ファステストラップ0回 
       チャンピオン0回

名選手、と呼ぶにはそうそうたるメンバーの中で浮くかもしれませんが、日本を代表するチームオーナーでした。プロストのフランス色があれば亜久里の日本色もある。エンジンも日本、ドライバー2人も日本、タイヤも日本、そして経営者も日本と厳しい世界だと本人が一番理解しつつ、ガッツあるファイターだと誉めたいです。
シャシーはホンダからでなく、エンジンの大きさすら違う4年落ちのアロウズを改造し、お金も苦労しかき集め参戦の許可をもらい、1年目の2006年は悔しいシーズン。2年目にやっとエースドライバーの佐藤琢磨が2回の入賞で4ポイントを獲得しましたが、それを最後に翌2008年のシーズン序盤に撤退、破産しています。



こうしてみてみると、二世ドライバー同様に、師匠(オーナー)を超えるのは至難の業でいくら輝かしい経歴をもってしても、それを超える結果は困難であることがわかります。サー・フランク・ウィリアムズやエディ・ジョーダン、ペーター・ザウバーのような若手発掘にも貢献する名将もいる中「餅は餅屋」ということなのでしょうか。
ちょっとだけスチュワート・グランプリの行く末やメルセデスのご意見番として帯同する賢いニキ・ラウダあたりがオーナーをやるとどうなってるのかな、と想像してしまいました。


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