F1 えきぞーすとのーと

よくあるニュースネタやこ難しいテクニカルな話ではなく、メインは予選や決勝のTV観戦したそのものを個人的観点から綴るF1ブログです。  また、懐かしのマシンやレースを振り返ったり、記録やデータからF1を分析。その他ミニカーやグッズ集めも好きなので、それらを絡めつつ広く深くアツくF1の面白さやすごさを発信し、楽しんでもらえたらいいなと思っています。

タグ:パシフィックGP

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新型コロナウィルスに翻弄されて、未だ明確な開催に踏み切れないでいる今シーズンのF1。開催可能なサーキットで二回連続開催やら、逆走レイアウト採用だの様々な検討、模索していますね。ファンとしては何らかの形で無事に開幕してくれれば文句は言いませんし、むしろ感謝したいところですが、やはりスタッフや現地観戦するファンの安全が第一。世界を転戦するイベントなだけに感染拡大や批判の対象など無いよう慎重な判断を願いたいものです。
この開催すらできていない状況には反した話題にはなりますが、今までF1では「一国一開催」の原則がある中、様々な工夫と理由で複数開催を行った時代やGPがあります。本来であれば来週は元ヨーロッパGP、現アゼルバイジャンGPの行われる時期です。今回はヨーロッパGPに代表されるF1の「一国二開催以上のGPと変遷」をフォーカスしたいと思います。

まず四の五の言う前に今回はグラフを先に掲載したいと思います。
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これがノンタイトル戦を除き一国二開催以上を行った国とサーキット一覧になります。縦軸は1950年から5年刻みに破線を入れ、色の表現により開催の有無を示しました。何だかモールス信号みたいになってしまいました(笑)いつものグラフや表の2倍の大きさです。ダメですよ、この大きさをA4サイズで印刷したら「小さ過ぎて読めない!」なんて上司に怒られてしまいますよ、A3サイズ縦にしないと(笑)

グラフの見方を説明します。
 濃い色の塗り潰し :その国のメインGP
           ex.鈴鹿での日本GP
 薄い色の塗り潰し :二開催目以上にあたるサブGP
           ex.日本のパシフィックGP
 塗り潰しの無いもの:グラフにないサーキット
           ex.富士、COTAなど
 黒太枠で囲ったもの:「ヨーロッパGP」を強調
 枠すら無いもの  :F1が開催されていない

ケチらずその国で行われた全てのサーキットも並べればよかったのですが、それをやるとA2サイズで印刷しなければならないくらい大きく、さらに煩雑になるので割愛しました。GPは四輪の場合「その国の最高峰の大会」に冠しますので、F1で日本GPを名乗るとF1以外の四輪カテゴリーで日本GPは使えません。二輪は四輪とは別に日本GPが使用できます。また当然ながら一国一開催が原則であるため、何らかの理由で二開催する際は別称を与えて「あくまで一開催である」表現をする必要があります。では以下で各国単位に四の五の書いていきたいと思います。


《イタリア》
 57年第2戦 ペスカーラGP ペスカーラ市街地
 57年第8戦 イタリアGP     モンツァ

F1における最も古い「一国二開催」はイタリアによるものでした。F1制定初年の50年からイタリアGPといえばミラノ郊外にあるモンツァが代表格です。そんな中、57年に東海岸のペスカーラの市街地を使って一周25kmにも及ぶF1史上最長のペスカーラGPがたった1回だけ行われました。なぜペスカーラが選ばれたのかmiyabikunは定かではありませんが、この50年代後半は55年のル・マン24時間レースで多数の死亡事故が起き、スイスやスペイン、ドイツやフランスGPといったF1開催の常連国が中止するなど、モータースポーツに対して消極的な時期と重なりますので、昔からレースが行われきたこの地を選手権に加えたのでしょうか。ペスカーラ市街地でのカーレース自体は57年に止まらず、F1制定前の1924年から61年までと実に長きに渡り使用されていました。

 81年〜06年 サンマリノGP イモラ
 81年〜06年 イタリアGP     モンツァ

イタリアの二開催の代表格といえばボローニャ郊外のイモラ市にあるエンツォ・エ・ディノ・フェラーリで行われたサンマリノGPですね(グラフでは長いので「イモラ」と表現しています)前に「今はなきGPとサーキット」でも書いていますが、サンマリノ国は実際に近隣にあるものの、このサーキットの所在はイタリア国内となります。F1の長い歴史の中で最多の開催を誇るのがイタリアGPのモンツァで、その数は69回です。80年の1年だけこのサーキットを使ったイタリアGPが行われ、以降はサンマリノGPという冠でイタリアの一国二開催を続けてきました。セナやラッツェンバーガーの死亡事故で悪名高いイメージがある通り、高速寄りのマシンレイアウトでこれ以外の事故も多発し、度々の軽微変更を繰り返しています。F1といえばフェラーリ、フェラーリといえばイタリアのサーキットが真っ赤に染まるのは風物詩でもあります。しかし、たまたまなのか偶然か、フェラーリで5連覇を果たしたM・シューマッハの引退と時を同じく06年をもってイタリアの一国二開催にピリオドが打たれました。サーキットは今でも現存し、他カテゴリーで使用されています。

《アメリカ》
 59年〜60年 インディアナポリスGP
 59年第9戦   アメリカGP  セブリング
 60年第10戦 アメリカGP  リバーサイド

F1はヨーロッパ発祥のモータースポーツ。その体質は今でも大きく変わらないわけですが、実は大国アメリカにもF1は古くから多くの関わりを持っています。まずは今でも「世界三大レース」に数えられるインディアナポリスGPから始まりました。いわゆるインディ500です。ただご存知の通りインディアナポリスGPと他のGPではドライバーやチームに隔たりがあり「同じF1というくくり」としては温度差を感じます。したがって実質的な「アメリカの初F1上陸」は59年の第9戦に設定されたセブリングが発祥になりそうですね。こちらは我々もよく知る名前のドライバーやチームで占められます。

 76年〜83年 アメリカ西GP ロングビーチ市街地
 76年〜80年 アメリカ東GP ワトキンスグレン
 81年〜82年 アメリカGP     ラスベガス
 82年〜84年 アメリカ東GP デトロイト市街地
 84年第9戦   アメリカGP     ダラス市街地

グラフからもわかるように、アメリカGPは全く行われない時期を度々経験してきました。60年シーズンから15年近くの空白の時を経て、70年代後半からは「アメリカ黄金期」ともいえる大フィーバーを迎えます。アメリカを東西に分けて一国二開催を実現しました。それの最たるものが82年です。第3戦ロングビーチでのアメリカ西GP、第7戦は自動車産業が盛んなデトロイトでのアメリカ東GP、そして最終戦はカジノなどの娯楽が盛んなラスベガスでホテルの駐車場をサーキットに仕立てたアメリカGP(ラスベガスGP)の「一国三開催」です。自国でも独自のモータースポーツ文化がありながら「盛り上がる(お金をおとしてくれる)ならウェルカム」という、さすがアメリカといった感じですね。ちょっと変わった点としては85年と86年の2年はデトロイトに絞った開催なのに「アメリカ東」という名で行ったたのが面白いです。その後フェニックス市街地や先述インディアナポリスのバンクを逆走させて復活したり、オースティンに新設したサーキット・オブ・ジ・アメリカズ(通称COTA)など現在も続くアメリカGPですが、現時点は原則の一国一開催に戻りました。今のF1の興行権を持つのがアメリカのテレビ会社「リバティメディア」度々第二アメリカGP計画が噂に上がり、今後新たな一国二開催を実現しそうな国の最有力候補にあります。やりたい主催者、よく思わない住民。市街地サーキットはこの協議が大変。

《フランス》
 82年第11戦 フランスGP ポール・リカール
 82年第14戦 スイスGP    ディジョン・プレノワ

久々の復活を果たしたフランスGPも一度だけ一国二開催を経験しています。実はスイスGPも首都ベルンのブレムガルテンでF1初年の50年から5回行われていました。しかし先述55年ル・マン24時間レースの死亡事故の影響から廃止されています。ちょうどフランス人のプロストが台頭した頃、フランスGPとして開催されていたディジョンとポールリカールのどちらも開催するために、このディジョンを82年だけスイスGPと冠して行いました。先程のサンマリノGPもそうですが、実際はやっていないのに近くの国の名前をお借りしてやるのは本当はズルだけど、その国の人からみればちょっと得した気分になります。日本は島国だからこのやり方は通用しませんし、日本の採った策はこのあと取り上げます。

《イギリス》
 83年,85年 イギリスGP     シルバーストン
 83年,85年 ヨーロッパGP ブランズハッチ

F1では古くから歴史を持つイギリスGPも過去にやっていました。現在もイギリスGPの舞台として続くシルバーストンと交互開催を行ってきたブランズハッチに対して、83年にブランズハッチ側をヨーロッパGPと名付けて2回開催しました。時期的にはちょうど母国のマンセルやマクラーレンの台頭にあたる頃でしょうか。一国二開催を象徴する非常に便利な呼び名「ヨーロッパGP」はこれが発祥です。

 93年第3戦   ヨーロッパGP ドニントンパーク
 93年第14戦 イギリスGP     シルバーストン

90年代に入り、次はシルバーストンとドニントンパークによる二開催もありましたね。こちらは見事なスタートダッシュを決めたセナで超有名な「雨のドニントン」と呼ばれるやつですね。ドニントンでのF1はF1史において非常に有名ではありますが、F1が行われたのはたったの一度キリ。サーキット自体は現存し、他カテゴリーが使用しています。

《ドイツ》
 84年第12戦 ドイツGP        ホッケンハイムリンク
 84年第15戦 ヨーロッパGP ニュルブルクリンク

 95年〜96年 ドイツGP        ホッケンハイムリンク
 95年〜96年 ヨーロッパGP ニュルブルクリンク
 97年〜98年 ドイツGP               ホッケンハイムリンク
 97年〜98年 ルクセンブルクGP ニュルブルクリンク
 99年〜06年 ドイツGP        ホッケンハイムリンク
 99年〜06年 ヨーロッパGP ニュルブルクリンク

一国二開催のF1でイタリアとサンマリノの関係の次に有名ともいえるのがドイツですね。上記だけみていると名前も長いしややこしく見えますが、ルールは実にシンプル。ドイツGPがホッケンハイムリンクでヨーロッパGPがニュルブルクリンクです。元々ドイツGPといえば市販車開発テストやゲームなどでもお馴染みのニュルブルクリンク北コース(ノルトシュライフェ)が用いられてきましたが、長く狭く難しく、ラウダ瀕死の事故も発生し、危険であることから舞台をホッケンハイムリンクに移すこととなりました。しかしニュルブルクリンクは短絡な「GPコース」を開設し、83年にイギリスGPで採用されたヨーロッパGPの名を使って84年に復活、以降95年から06年まで二開催を実現しました。95年から06年までのドイツといわれると、ある人がピンと浮かぶと思います。そうM・シューマッハ。まさしくシューマッハの活躍に乗っかった形の一国二開催であることが明白です。そんなドイツも先程のサンマリノGPと同様に06年までという「シューマッハの引退」とちょうど重なっているのがまた分かりやすい。ちなみに97年と98年の2年間だけ、ニュルブルクリンクはご近所のルクセンブルクGPを名乗るも、シューマッハは優勝もチャンピオンも逃しています。またドイツの面白い点としては07年にニュルブルクリンクでのヨーロッパGPは行われましたが、肝心なドイツGPがありませんでした。近年になり有能なドライバーやチームが参戦しているというのに、肝心なGP開催が不安定というか不透明ですよね。母国の人達が可哀想です。

《日本》
 94年〜95年 パシフィックGP TI英田(岡山国際)
 94年〜95年 日本GP               鈴鹿

いよいよ日本の登場です。言うまでもなく皆さんよくご存知だと思います。まだ日本もF1人気があった頃、定着しつつある鈴鹿サーキットでの日本GPに対抗すべく、第二のGP開催を目指してゴルフ場を経営をしていたタナカインターナショナルが当時のFIA副会長であるバーニー・エクレストンに直談判して岡山県のTIサーキット英田でのF1開催にこぎつけています。さすがにヨーロッパGPのような便利な愛称が使えない日本は「太平洋」を意味する「パシフィック」を用いて94年に組み込まれました。
ヨーロッパがダメなら日本には「アジアGP」がちょうどいいのでは、と思いますよね。アジアGPは93年にメキシコGPの代替としてオートポリス(大分県)で使用する予定でした。しかし前年92年にサーキット所有する日本オートポリス自体が倒産して開催できなかったという「いわく」が付いています。
アジアの呼び名を避け、パシフィックを用いて始動したわけですが、2回目の95年は開催前に阪神・淡路大震災が発生。急遽日本GPの前に差し込み「日本二週連続開催」で事なきを得たものの、翌96年は予定通り春開催を望むFIAと、鈴鹿と連ねた秋開催を望んだサーキット側の意見が合わず、そのまま消滅する形となりました。

《スペイン》
 94年,97年 スペインGP     カタロニア
 94年,97年 ヨーロッパGP ヘレス

最後はつい最近まで一国二開催を行ってきたスペインです。その初めはヨーロッパ諸国では最も遅い94年にヘレスでヨーロッパGPを開催しています。ヘレスも古くはスペインGPの舞台として度々使用されてきたサーキットです。ただ90年代に入った頃にオリンピックを控えたバルセロナにカタロニアサーキットを新設したことでスペインGPの座を奪われました。以前にこのブログで振り返ったことのあるヨーロッパGPで2回目の97年は珍事がありました。マクラーレンのハッキネンが自身初となる優勝で表彰式を迎えた際、本来はメルセデス会長がプレゼンターだったにも関わらず、急遽地元の市長が割って入ったことでFIA側が激怒し「今後ヘレスでF1は行わない」という事件が起きてしまいました。実際にこの97年以降、ヨーロッパGPを含めヘレスではF1は行われていません。

 08年〜12年 スペインGP     カタロニア
 08年〜12年 ヨーロッパGP ヴァレンシア市街地

ヘレスでの珍事から9年後の08年から新設のヴァレンシア市街地を使ったヨーロッパGPが復活開催されました。スペインは他の主要ヨーロッパ諸国に比べ、輩出ドライバーは少なく、またチームも無いためF1の人気や貢献度はどちらかというと低め。そんなスペインを二開催するまでに引き上げたのは何だったのか。スペイン人初のチャンピオンを獲得したアロンソの存在と活躍に尽きます。サーキットはヘルマン・ティルケ監修で倉庫や港を取り囲む公道を周回するレイアウトを採用。コントロールラインから最も遠く、海にせり出した区間は可動橋となっており、普段は船が航行する水路をなし、サーキット使用時は橋になるという工夫が施されました。アロンソがチャンピオンを獲得した翌々年08年からフェラーリに移籍してもなかなかチャンピオンを獲れないでいる12年までの5年間でスペインGPとの二開催を実現しますが、もう少し粘ってくれたら、アロンソはどうにかなったかも?!(笑)このヴァレンシアでの二開催終了が現時点での最後の開催となります(ヨーロッパGPという名は16年のバクー市街地で復活)

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以上、今まで70年の歴史において一国二開催以上の開催例は64例129戦ありました。いずれも人気ドライバー出現や国における力の入れ具合により実現されたものとなります。近年は新規開催の計画や噂が出つつもなかなか合意に至らない例、そして既存のサーキットやGP自体がコストなどの問題により開催できないケースすら出てきています。F1は莫大なコストがかかるモータースポーツです。さらにF1時代の人気や集客を考えると、一国二開催は勢いがあった頃の「過去の輝かしい栄光」ということで今後は一部の地域を除き廃れてしまう可能性が高いと思われます。ただ冒頭にも書いたように、今シーズンは新型コロナウィルスの影響で国々によって状況や解釈が異なり、開催に前向きな所や否定的な所と様々あります。もしかしたら例外的に一国二開催が行われるかもしれません。今後の判断や決定が気になるところです。
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ロシアGPも無事に終わり、毎年恒例の日本GP強化週間に入ります。日本で「日本GP」以外の日本開催といえば、以前一度振り返ったこともあるパシフィックGPですね。たった2回の開催のうちの2回目、1995年の第15戦に行われたパシフィックGPを振り返ります。
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このGPは結果的に第16戦の日本GPの直前にあたる10/22に行われて「2戦連続の日本開催」という夢のようなシチュエーションでした。ただこれは意図してこうなったのではなく、実は前年1994年と同様に春開催の4/16が決勝となる第3戦に設定されていました。しかしこの年は1/17に阪神・淡路大震災が発生、お隣神戸を中心とした関西地区に甚大な被害が及んだため、急遽移動してこのような連戦が生まれています。F1の夏はヨーロッパのものだし、僻地の日本で行うなら春か秋。お楽しみが2度ある方がよかったのか、2戦連続が移動距離も少なくてよかったのか、考え方は様々ですね。

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このパシフィックGPから新入りがF1デビューを果たしました。赤いレーシングスーツにメルセデスのロゴ、この可愛らしいドライバーは誰だ?!
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これは24年後の同じ人。何だか人相は変わってしまいましたが、面影がありますよね。ヤン・マグヌッセンです。ハースの「危険人物」ことケビンの父親。マクラーレンの若きエースであるハッキネンの病欠により、代理出走となりました。そういえばケビンもデビューはサードドライバーを経たマクラーレンからでしたし、年齢も父親と同じ22歳で同じような系譜を辿っています。ちなみにこの時既にケビンは3歳、さすがにパパのF1デビューは覚えていないかな。
ニュルブルクリンクでの第14戦ヨーロッパGPまでにベネトンのM・シューマッハが7勝の82ポイントで首位を突き進み、2位ウィリアムズのD・ヒルが3勝の55ポイントで迎えています。ヒルとしては自力チャンピオンの可能性は既に絶たれ、パシフィックGPを含めたシーズンの残り3戦でヒルが全勝の30ポイントを獲得して、シューマッハが2ポイント獲得に止まる場合にのみ初チャンピオンが成立するという、まさに「首の皮一枚」の状態で岡山入りしました。2位では追いつきません。

抜き辛い低速レイアウトのTIサーキット英田において、予選は肝心のヒルではなく2年目のチームメイトであるD・クルサードがポールポジションを獲り、2番手ヒルを挟んだ3番手にシューマッハという構図となりました。クルサードがヒルにトップを譲る方策はあっても、シューマッハが3位の4ポイント獲得されてはダメ。
日本人ドライバー最上位はリジェ・無限ホンダからアルバイト出走する鈴木亜久里で12番手。第13戦ポルトガルGPでクラッシュを喫し、1戦のお休み明けとなったティレル・ヤマハの片山右京が17番手。さらに「色んな意味」でフットワークが軽いフットワーク・ハートの井上隆智穂が20番手となり、何とこのレースに3人エントリーしています。本当はさらに2人、フォルティ・フォードから野田英樹、パシフィック・フォードから山本勝巳が参戦を目論みますが、スーパーライセンスが発給されなかったため断念しています。上手くいけば5人参戦とは、さすが「日本の」GPですね。

《予選結果》
   1 D・クルサード (ウィリアムズ・R)
   2 D・ヒル       (ウィリアムズ・R)
   3 M・シューマッハ(ベネトン・R)
   ※タイヤはグッドイヤーのワンメイク

英田の決勝は1周が短いため83周で争われます。スタートで失敗してしまうようなことがあれば、低速で狭く抜き辛いという地獄のようなレース内容となりますので、スタートが肝心です。
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スタートは失敗できない、スタートでやられるわけにはいかない、ヤツにずっとテールを見せつけていくんだ。ヒルはシューマッハを頑なに牽制して、行く手を塞いでいきます。
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気迫負けかシューマッハをアウトにはらませ、5位まで落とすことに成功したヒルでしたが、イン側がガラ空きとなり、4番手スタートのアレジに2位のボーナスを与えてしまいました。ヒルはシューマッハのことしか見えていない。他にも前を伺うライバルがいるわけで、ヒルのシューマッハ撃破は「優勝すること」が条件なはずです。

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ヒルのブロックにより5位まで落とされたシューマッハは5周目にベルガーをパスして3位を走るヒルを猛然と追いかける。フェラーリをいとも簡単に攻略したシューマッハに対して、ヒルはもう一人のフェラーリを抜きあぐんでいます。英田は抜けないのです。
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さっきはよくもしてくれたな。ヘヤピンをアウトから仕掛ける。ヒルもここまでか?!
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耐え抜く。抜かれ辛い英田で自身はチームメイトのいるトップのいる位置まで到達しないと成立しません。

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アレジ、ヒル、シューマッハのラインナップで動きが起きないまま、序盤20周目に1回目のピットインに入ります。3ピットストップで三者合わせる形に。
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シューマッハは6.3秒で完了、アレジも完了して順調にトラックインする中で、ヒルだけはなかなかその集団に混ざりません。ヒルは2ピットストップ戦略並みの停止時間12.2秒もかかって、結局シューマッハ、アレジ、ヒルの順に入れ替わります。シューマッハはいい空間にマシンを差し込めましたが、ヒルは中団の遅いマシンの後ろに。
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ウィリアムズはチーム側の不手際が大きく足かせになりました。これではトップどころかシューマッハにもどんどん差を広げられてしまいます。早く抜いて追いつかねば!

アレジは24周目にジョーダンのアーバインをパス。ヒルも続きたい。
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接触。左フロントウィングにダメージと低速テクニカルの英田で致命傷と負ってしまいました。
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こうなったらトップをひた走るクルサードに託すしか術はありません。クルサードは2ピットストップ戦略の1回目を終えて、2位のシューマッハまでは7秒のギャップ。その後シューマッハの2回目、クルサードの2回目を終えて順位が入れ替わり、シューマッハは15秒の先行ギャップで3回目を行わなければなりません。ピットストップによるロスは24秒と計算されていたため、無難にいけばクルサードに分があります。
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しかしこの年の26歳のシューマッハはイケイケ。チャンピオンを獲るならトップで獲りたいという勢いがあります。59周目の3回目ピットを終えて戻れば
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クルサードの前、トップに。ベネトン陣営やったあ!
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ウィリアムズは2年連続でベネトン&シューマッハにやられた。。
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《決勝結果》
   1 M・シューマッハ(ベネトン・R)
   2 D・クルサード (ウィリアムズ・R)
   3 D・ヒル       (ウィリアムズ・R)

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第16戦の日本GP、最終戦オーストラリアGPを残し勝ってチャンピオンを獲得したシューマッハ。1年目の94年はグレーに近いチャンピオン獲得となりましたが、この年は完膚なきまでの走りをもって、レース参戦の歴史も長くないベネトンを最強チームにのし上げました。やっぱり「自らが勝ってチャンピオン」というのが清々しいですね。

なお、パシフィックGPは翌1996年も第2戦あたりに組み込まれる打診をされましたが、開催時期が近く、集客面においても日本GPと相殺による減収の懸念もあり、この年を最後に行われなくなりました。

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過去のサーキットシリーズ最終章のアジアラウンドです。F1のアジア進出は2000年代に入った頃からブームが到来したこともあって、テレビ中継され比較的馴染みのあるGPが多いかと思います。ただこの企画で取り扱われる=現時点で消滅してしまっている、というわけなので寂しい限りです。特徴的なのは1サーキットを除いた他はヘルマン・ティルケの監修によって、元々あったサーキットを改修したのではなく、わざわざF1のために一から開設したものである点です。わざわざ誘致して金かけて、もう既に無いわけですから、目立ったレイアウト変更もなく短命なものばかり。もったいない。

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トルコGP
《イスタンブールパーク》
  所在地 :イスタンブール県イスタンブール
  F1開催 :2005〜11(7回)
一周距離:5.338km
初代優勝:K・ライコネン(マクラーレン)
最多優勝:F・マッサ(3回)
最多P.P. :F・マッサ(3回)
最速P.P. :1分25秒049 S・ベッテル(2011)
最多F.L. :K・ライコネン(2回)
最速F.L. :1分24秒770 J・P・モントーヤ(2005)

アジアとヨーロッパの結節点、異国情緒が融合するトルコのイスタンブールパークサーキットです。アジア系では比較的多めとなる7回開催されました。
起伏に富んだ左回り(反時計回り)のレイアウトはアオムシみたいな形をしていますね。ちょうどアオムシの顔にあたる図の右側の多角形コーナーは名物「ターン8」です。4つのエイペックスをまとめてのネーミング。当然ながら走行ラインは各エイペックスにタッチするように一つの弧を描くように採るのが理想的ですが、これがなかなか困難のよう。ステアリング角やダウンフォース、サスペンション、タイヤなど様々なファクターが整わないとあれよあれよとアウトサイドのグラベルに引き込まれてしまいます。また一度リズムを崩すとなかなかラインに戻れないのも高難易度と言われる所以です。賛否両論あるティルケサーキットの中でもココは人気も高く、度々復活を望む声がありますよね。
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2018年現役ドライバーではライコネン、ベッテル、ハミルトンが1勝ずつとなっており、アロンソ、ペレス、ヒュルケンベルグもレース経験があります。最多勝は全11勝のうち3勝がココというマッサでした。


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インドGP
《ブッダ国際》
  所在地 :デリー連邦直轄地
  F1開催 :2011〜13(3回)
一周距離:5.125km
初代優勝:S・ベッテル(レッドブル)
最多優勝:S・ベッテル(3回)
最多P.P. :S・ベッテル(3回)
最速P.P. :1分24秒119 S・ベッテル(2013)
最多F.L. :全3回バラバラ(1回ずつ)
最速F.L. :1分27秒249 S・ベッテル(2011)

インドと言えば、人口が多い?カレー?それとも象?!間違えてはいませんが、それらとはちょっと違います。インドと言えばインド式数学で有名なようにITや工業にも長けた国です。
2010年にHRT(ヒスパニア・レーシング)でF1ドライブしたインドで2人目のK・チャンドックがインドでのGP開催に一役買いました。でも当の本人はココで実際にレースはしておらず、インド人が地元で走った最初で今のところ最後なのは初代インド人F1ドライバーで、現在は日本でも活躍するN・カーティケヤンでした。
このレイアウトを見ていると、どうしても下半分は握り心地がいいんじゃないかななんて思ってしまいます(笑)向きを90°右回転させると、アイロンに見えるし、バーレーンの時も書いたように「祈りを捧げるため正座して天を仰ぐ瞬間」にも見えます。そうそう、ベッテルがコントロールラインでやったやつ
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そうそう、正しくこんな感じ。
ティルケらしく様々なレイアウトを採ることができます。ただこちらもティルケらしく「どこかで見たことあるような」雰囲気を醸し出すサーキットです。路面はなかなかダーティでした。2011年から13年のたった3回の開催に止まりますが、予定ではもう少し契約は長くありました。現役のドライバーで走った者は多くいますが、ご存知の通りポールも優勝も全てベッテルが獲得しています。


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韓国GP
《韓国国際》
  所在地 :全羅南道霊岩郡三湖邑三浦里
  F1開催 :2010〜13(4回)
一周距離:5.621km
初代優勝:F・アロンソ(フェラーリ)
最多優勝:S・ベッテル(3回)
最多P.P. :S・ベッテル(2回)
最速P.P. :1分35秒585 S・ベッテル(2010)
最多F.L. :S・ベッテル(2回)
最速F.L. :1分39秒605 S・ベッテル(2011)

アジアで日本、中国ときたら、当然あります韓国も。韓国の国旗って日本国旗と少し似ているけど細かな描写ですよね。真ん中の赤と青のまが玉は「赤は陰陽」「青は太極」を表し、その四隅は「卦(け)」と呼ばれるものが配置されています。その4つの卦、四卦もよく見るとすべて異なるパターンです。古くは朝鮮(今の南北朝鮮)時代から続き、中央が赤青黄の三色が使用されたり、四隅の卦を8つ用いた「八卦」だったこともあるそうです。興味のある方は是非調べてみて下さい。
このサーキットは所在地から「霊岩(ヨンアム)サーキット」とも呼ばれています。朝鮮半島でいう「うさぎの足元」あたりに位置し、日本からも近いです。2007年から干拓地の造成を始め、2009年の秋から地上設備建設に着手しましたが、2010年の秋開催にギリギリ、、間に合いませんでした。以前に初開催を振り返ったことがありますが、舗装面の養生不足や縁石の高さ調整不足、排水への対応不足、路肩は文字通りの「グリーンのペイント」で対処するなど、未完成部分や不備のあるまま迎えてしまい、GP開催中に急遽補修を施しています。また何よりもコースマーシャルが未熟かつ不足しており、遠いお隣のオーストラリアから人材を集めるなどの対応で臨みましたが、事故処理の対応や使用しないタイプの消火器の使用などにより不評を買ってしまいました。解説の森脇氏も中継中に「最低な対応」と批判したのは有名ですよね。サーキットまでのアクセスや宿泊施設も整備が追いつかずに苦労したとのこと。サーキットレイアウト監修は同じくティルケ氏によるものですが、そのあたりの不手際は当然ながら関係ありません(笑)
レイアウトはマレーシアにも似て今にも噛みついてきそうなパックマン型です。極端に長い2本のストレートに小刻みに続く中低速コーナーがティルケっぽさを感じます。このサーキットは市街地ではない専用サーキットなのに、区間によってはウォールに近いため閉塞感を覚えます。
こちらも現役ドライバーが多く走行しており、4回開催中ベッテルが2ポール3勝を挙げています。ちょうどこの時期レッドブルでフィーバーしていた時代と重なることもあって、日本GPと合わせて中国を除くアジア全般で好成績です。


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パシフィックGP
《TIサーキット英田(現 岡山国際)》
  所在地 :岡山県英田郡英田町(現 美作市)
  F1開催 :1994,95(2回)
一周距離:3.703km
初代優勝:M・シューマッハ(ベネトン)
最多優勝:M・シューマッハ(2回)
最多P.P. :A・セナ、D・クルサード(1回ずつ)
最速P.P. :1分10秒218 A・セナ(1994)
最多F.L. :M・シューマッハ(2回)
最速F.L. :1分14秒023 M・シューマッハ(1994)

アジア編の最後は我らが第2日本GPとして2年間だけ開催されたパシフィックGPです。以前にレースを振り返った際に粗方書いてしまいました。まだ日本の景気がいい時代、ゴルフ会員権などを扱うタナカインターナショナルの田中肇社長によってバーニー・エクレストンに直談判の末、開催にこぎつけたものです。ただ当時は一国一開催のルールがあり、日本GPは鈴鹿サーキットで使用していたため「太平洋」の意味のパシフィックをGP名として採用しています。
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岡山県の山間の限られた敷地にコンパクトに設営され、ご覧の通り缶切りだかエレキギターのような形状で、鋭角以下の低速コーナーで構成されています。初開催の1994年はセナ、翌95年はクルサードと2回ともウィリアムズがポールを獲得するも、決勝は2回ともベネトンのM・シューマッハが優勝しました。
95年初頭の1月17日に発生した「阪神・淡路大震災」の影響で当初予定していた4月開催から日本GPの一週前の10月に延期され、何と日本国内で二週連続開催となりましたが、96年は春先に開催したいFIAと秋開催を望んだ運営側の折り合いが付かず、そのままバブル崩壊による経営悪化も相まって消滅してしまいました。仮に今でも経営悪化が無ければ続いていたのか、日本のコンストラクターやドライバー参戦が難しくなった2000年台後半まで永続されることは無かったように思います。

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世界的に人気の高い鈴鹿サーキットでの日本GPも、首の皮一枚繋げて生き延びる時代です。日本のみならず今は世界的に自動車に求めているもの、方向性がこの20年だけでも大幅に変わってきました。スポーツ性を高めたい旧来からのファン、相反する部分もありつつ、エンターテイメント性を高めて新たな支持や若者への関心に仕向けていかないと、伝統や歴史言う前にF1そのものが破綻してしまいます。今後F1のあり方や目標、目的をしっかり定めて続けてほしいですね。
夏休み期間中からまとめて、昨シーズンの各レース前を含めると一年半近くかけてF1の全40GP、72サーキット(ラスベガスだけは、本当にごめんなさい)を見てきました。表現と確認できる限りレイアウト変更も示したつもりです。これからまた新たなGPやサーキット、レイアウトが現れては消えていくと思いますが、全世界でF1が引き続き開催され、ファンが魅了する走りを見続けていけることを願っています。

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今回は過去に2回だけ日本で年に2回行われたものの一つ1994年の第2戦パシフィックGPを振り返ることにします。舞台は現在「岡山国際サーキット」と呼ばれるTIサーキット英田で行われました。なかなかな山間部です。一国一開催が基本のF1がなぜ日本で2回行われたか、日本はまだ今に比べてF1人気もあり、例外的に収益が見込める国においては「別名を冠する」形で許されていた時代でした。タナカインターナショナルというゴルフ場経営を営んでいた会社社長、田中肇によって当時のFIA副会長、FOPA会長のバーニー・エクレストンに直談判、開催に至っています。ちなみにパシフィックとは「太平洋」のことです。1993年のオートポリスで頓挫したアジアGPという名は使いませんでした。
狭い山間にコンパクトに設営されたココは鈴鹿とはだいぶ違う、中低速レイアウトでした。リアウィングはだいぶせり立っています。
1994年にマクラーレンから念願のウィリアムズに移籍したセナは、開幕戦の地元ブラジルGPをポールポジションからのリタイヤで終え、ウィリアムズとのコラボレーションを活かせないでいました。このパシフィックGPの予選1回目でも暫定的にポールポジションを獲得し、ベネトンの若手、M・シューマッハは2回目をアタックしなかったため、そのまま1回目の順位のまま連続ポールポジション獲得に至っています。
ただポールは獲得したものの、セナはハイダウンフォースのココでセナのみならずヒルも同じ箇所でスピンを喫したことについて、マシンに懐疑的な面があるコメントを残しています。
《予選結果》
   1 A・セナ(ウィリアムズ・R)
   2 M・シューマッハ  (ベネトン・Fo)
   3 D・ヒル(ウィリアムズ・R)
     ※Foはフォード、タイヤは全グッドイヤー


スタートはフォーメーションラップ中にタイヤを作ることができなかったポールスタートのセナが大失敗。逆に走行ラインでないイングリッドスタートのシューマッハは用意周到にラインを予め綺麗にしていた努力が報われて1コーナーでトップに立ちます。
蹴り足の鈍ったセナは昨年までのチームメイトであった4番手スタートのマクラーレンのハッキネンに追突されてスピン。
フェラーリのラリーニを巻き添えにリタイヤで終えます。セナは被害者であるラリーニに八つ当たり。
ハッキネンに対して怒りがおさまらないセナはさらにコントロールタワーを駆け上がり、不満をぶつけにいきます。せっかく前年の日本GPで表彰台に共に上がって讃えた後輩がさも敵に、、怖い怖い。。

こうなってしまえばシューマッハに恐れる敵はいません。2周目に2位のハッキネンに対して2秒以上のギャップを築き、10周目に初サーキットの初ファステストラップを記録しながらクルージングモードです。
この年から晴れてマクラーレンのエースに成り上がったハッキネンも、スタートでのバチが当たったか19周目にギヤボックスを壊してリタイヤしました。ガレージに戻るの、怖かっただろうな。

日本人ドライバーはティレルの片山右京が14番手スタート。開幕戦で暴れて出場停止を食らった荒くれ者、アーバインに代わってジョーダンからアルバイト出走した鈴木亜久里が20番手スタートでした。
43周目に片山のエンジンが力尽き、グラベルにマシンを止めます。また、翌周にはステアリングの不調によって鈴木もリタイヤと2人とも「2回ある母国GP」を苦い内容で終えてしまいました。リタイヤした鈴木はインタビューした津川哲夫の「次頑張って下さい!」に対して「あ、次無いんだ」と返したのは有名な台詞ですね!

他、レース内容は正直これといって面白いわけではありません(笑)まだ髪がフンワリある若かりし鉄人バリチェロが初表彰台となっています。


《決勝結果》
   1 M・シューマッハ  (ベネトン・Fo)
   2 G・ベルガー(フェラーリ・F)
   3 R・バリチェロ(ジョーダン・FH)
     ※FHはハートエンジン(フォードカスタム)

翌1995年は1月17日に発生した「阪神・淡路大震災」の影響で4月から10月に延期、鈴鹿での日本GPの一週前の連続開催となりました。1996年は春先に開催したいFIAと秋開催を望んだ運営側の折り合いが付かず、そのまま「バブル崩壊」のあおりと経営悪化を迎えて、以降はパシフィックGPは行われていません。
観戦当時、自身は中学2年生でした。前回振り返った1993年日本GPを機にマクラーレンを離れたセナからハッキネンファンに切り替えた間も無くのレースで、幼ながら心中「初っ端から何やらかしてくれたんだ!それも相手が悪過ぎだよ!」と複雑な思いをしたのを覚えています。
マシンの乗りこなしに違和感を持つセナ。解決されないままこの直後に「悲劇」を迎えることになりました。

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