F1 えきぞーすとのーと

よくあるニュースネタやこ難しいテクニカルな話ではなく、メインは予選や決勝のTV観戦したそのものを個人的観点から綴るF1ブログです。  また、懐かしのマシンやレースを振り返ったり、記録やデータからF1を分析。その他ミニカーやグッズ集めも好きなので、それらを絡めつつ広く深くアツくF1の面白さやすごさを発信し、楽しんでもらえたらいいなと思っています。

タグ:ハーバート

以前にベネトンB194を取り上げました。今回はベネトンで唯一コンストラクターズチャンピオンを獲得した1995年のB195をみていきます。

《設計》
ロリー・バーン
ロス・ブラウン

《外見》
B194で緑だった部分が白に変更され、全体的に青みの目立つカラーリングになりました。それもあってかボリューミーに感じます。特徴的なせり上がるノーズコーンに縦長のサイドポンツーン開口。そしてこのマシンはフロントウィング翼端部も当初は立ち上がっている時期があるなど、曲線的な部分も強調されますが、基本的にはB194からの正常進化であるため、外見で大幅な変更には至っていません。
ただし、全長は大幅に延長されています。それもそのはず、フォードV8からルノーV10にこのシーズンから載せ替えることを選びました。これで当時強敵であったウィリアムズと横並びになります。気筒数が増えると高回転に対応可能、高出力化に繋がりますが、エンジンの大型化や重量増に波及します。それがB194から「正常進化」だけでは足りない部分だったかもしれません。エンジンカバー後部のリヤサスペンションには延長部分を覆うようにスリット付きの扁平ウィングを装着しています。
スポンサーは変わらずの日本たばこ産業(JT)とサイドポンツーンに黄色でデカデカと際立つビッツブルガーのロゴマーク。タバコと酒の合わせ技は今の時代にはあり得ないであろうオトナなコンビネーションです。この頃からIT業界も徐々に進出し、ヒューレッドパッカード(HP)やコンパックなどもスポンサーについています。マシンに文字が沢山入っていた時代です。フロントウィングにはmiyabikun御用達のミニチャンプスも入っています。これはあくまでモデルカーでなく、本物。

このマシンには「弟分」がいるのも有名ですよね。ルノーエンジンは元々リジェが搭載していました。フラビオ・ブリアトーレがこのベネトンにスイッチするよう計らい、こちらはミナルディが搭載予定としていた無限ホンダを手に入れ、フォードV8から無限ホンダV10を搭載予定だったミナルディが結局そのままフォードV8のままという「エンジン横取り」さらにはB195をリジェJS41として「非常によく似た」マシンとして使用するようになります。コンコルド協定で「各社でマシンを製造すること」というものに抵触しているのでは?という疑惑がかかりました。こうしてみると、そっくりだ。

《エンジン》
ルノーRS7
V型10気筒・バンク角67度
排気量:3,000cc(推定)
最高回転数:14,000rpm(推定)
最大馬力:639馬力(推定)
スパークプラグ:チャンピオン
燃料・潤滑油:エルフ

《シャシー》
全長:4,500mm
全幅: - mm
全高:950mm
最低車体重量:595kg(ドライバー含む)
燃料タンク容量: - ℓ
クラッチ:AP
ブレーキキャリパー:ブレンボ
ブレーキディスク:カーボンインダストリー
ブレーキパッド:ヒトコ
ホイール:BBS
サスペンション:フロント プッシュロッド
                                 リヤ    プッシュロッド
タイヤ:グッドイヤー

《ドライバー》
No.1 ミハエル・シューマッハ(全戦)
No.2 ジョニー・ハーバート(全戦)

《戦績》
147ポイント コンストラクター1位
(1位11回、2位2回、3位2回、4位4回ほか)
ポールポジション4回

チャンピオンを獲得したM・シューマッハと1989年の途中離脱となったF1デビュー以来1994年から復帰したハーバートが正ドライバーとしてコンビを組んでいます。一時期は片山右京がこのマシンに乗るのでは?!と言われていましたが、残念ながら至りませんでした。もしドライブしていたら、ハーバートに肉薄したか、あるいは少し下か。日本人としては期待したいところでしたよね。
若きチャンピオンと最強ルノーV10に換装した組合せには大いに期待されますが、シーズン前テストではトラブルも多く、先日振り返った開幕戦ブラジルGPで「ヒルからの棚ぼた優勝」を飾るも「信頼性とドライバビリティ」については劣勢と不安を抱えていました。それはこのベネトンに限らず、全てのマシンやチームが抱えた悩みの種でもありました。ハイテク機器を取り上げられ「大事故」からの安全対策、ドライバー自体の全体的な若年化や未熟さも相まっての「F1倦怠期」でした。そこでチームは前年と同様に「再給油」をはじめとした戦略的勝利を企てます。最大のライバルであるウィリアムズFW17は12回のポールポジション獲得に優勝5回と比較すると、このB195はポールポジション4回、優勝11回と明らかに「勝利へのプロセス」が異なります。速さはあれど不安定なライバルの隙を突く戦略です。
第3戦サンマリノGPでシューマッハがコースアウトしてリタイヤして以降は扱いに厳しいマシンを巧みに乗りこなし、スペイン、モナコで優勝するなどごまかし堪えながら復調をみせています。また、シューマッハの腕や見合った戦略だけではなく、マシン改良にも手を抜かず、第7戦フランスGPからエアインテーク改良を施すなど、レギュレーション変更への柔軟な対応も確実に「ベネトンの連覇と完全勝利」へと利いています。結果的にシューマッハは全17戦中9勝、11回の登壇で2位のD・ヒルを大きく引き離す2度目のチャンピオンを獲得しています。
一方で出戻りのハーバートが非常に出来が悪かったわけでもなく、シューマッハの落とした第8戦イギリスGPは母国での初優勝と第12戦イタリアGPでも勝ち、自身最高位の年間4位で終えています。ただ、シューマッハとの関係は決していいものではなく、第2戦アルゼンチンGPから「シューマッハはハーバートのデータロガーを見れても、ハーバートはブラウンを介しても見ることができない」などチーム自体がシューマッハ寄りの体制にあったことに憤りを感じて、このシーズンを最後にチーム去り、ザウバーへ移籍しています。

最強エンジンを得て、適応力ある有能な若手ドライバー、欠点を補う改良と戦略に「注力」したことで、前年のヒヤヒヤで「グレーな」戴冠でなく、確実なダブル戴冠を得たチームとこのマシン(エンジン騒動やマシン横流しという意味ではやはりグレー?)よく言えば「ここまで弱点を打ち消し、工夫を凝らせば鬼に金棒」だし、悪く言うと「チーム首脳とルノーエンジンによる、シューマッハだけのためのチーム」として、ここからシューマッハ最強王国確立が始まりました。シューマッハ自身もこのシーズンを最後に「ミスターF1」のフェラーリの再建にシフトしていきますが、この体制をそのまま引き連れた形で数々の成功を重ねています。昔から求められるチームの復調や再建は、本来はここまでやらないと、ここまでやっても数年かかってしまうわけで、近年はここまで思い切った「戦略」は採らず、大幅レギュレーション変更のチャンスに依存するしかなくなってしまっているのが、ドライバーもファンも残念な部分かもしれません。

マシンそのもの以上に「シューマッハと周囲の仲間たち」がうまい具合に化学反応を起こした結果、がこのマシンに多大な評価をもたらしています。

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この前のトロ・ロッソと同じパターンで名車の代表レースをそのまま続けてしまいます。前回のスチュワートSF3の代表レースは唯一の優勝とダブル表彰台を獲得した1999年の第14戦ヨーロッパGPです。この年のヨーロッパGPはニュルブルクリンクで、いわゆるドイツ国内のダブル開催のズルいパターンです。さすがに1999年まで遡ると、現役の正ドライバーとして1人も残っていません。

前に1999年の日本GPを振り返りましたが、その2戦前にあたり、チャンピオンシップはハッキネン、アーバイン、フレンツェンとクルサードの4人がまだしのぎを削っている頃、とても重要な一戦です。


予選は雨あがりでチャンピオン連覇を図るハッキネンの7戦連続ポールポジションが途絶え、チームメイトのクルサードでもなくジョーダンのフレンツェンにさらわれてしまいます。無限ホンダ初のポールポジションです。他、チャンピオン争いをしているクルサードが2番手、ハッキネン3番手、アーバインに至っては9番手と大きく離れました。

《予選結果》
1 H・H・フレンツェン(ジョーダン・MH)
2 D・クルサード(マクラーレン・M)
3 M・ハッキネン(マクラーレン・M)
   ※MHは無限ホンダ



決勝のスタートは晴れました。スタートの直前にミナルディのM・ジェネがストールしてしまい仕切り直し。2度目のスタートでフレンツェンに続いたのは3番手スタートのハッキネンでした。同点のアーバインが後方に甘んじているうちに引き離しを目論みます。
ただ、11番手スタートだったベネトンのヴルツがザウバーのP・ディニスを突いてしまい、ディニスは宙を舞って
天地がひっくり返ってしまいます。エアインテークにあるロールバーも全く意味を成さずにこれでは出られません。この時代にハロが欲しかったですね。当然セーフティカー発動です。


セーフティカーが退去すると、予選を台無しにした雨がまた訪れます。そこで2番手のハッキネンから20周目に真っ先にレインタイヤに履き替えます。ここからさらなる波乱への幕開けに。

雨が止み路面が乾き始め、ライバルから出遅れたアーバインはピットで用意していたレインタイヤから急遽ドライタイヤを装着するも用意がなくもたつきます。
乾き始めたということは、レインタイヤのハッキネンは当然ペースがズタボロです。交換せず待ったフレンツェンとクルサードに引き離されていきます。

33周までドライタイヤで頑張ったフレンツェンとクルサードは同時ピットとなり再びドライタイヤへ。順位は変わらずフレンツェンが前でピットアウトして間もなく、出力が無くなってリタイヤしてしまいます。
トップがクルサードになると、また雨が降り始め、せっかくの新品ドライタイヤでコースオフしてフロントウィングを壊してリタイヤ。

次のトップは若きベネトンのG・フィジケラに変わります。初優勝のかかるフィジケラも49周目にコースオフしてリタイヤ。今ではなかなか見られなくなった、ステアリングを投げて悔しい悔しい!
次のトップも同じく初優勝のかかるウィリアムズのR・シューマッハ。怪我で休む兄の分まで頑張ると地元で力も入りますが
右リヤタイヤがバーストして戦線離脱。このレースはトップになると何かに取り憑かれたように不運が起きます。

50周目、5人目にトップになった「被害予定者」は予選14番手だったスチュワートのJ・ハーバートでした。まさかこのチームのベテランにトップが舞い込むと思いませんでした。幸いにもハーバートには不運はなく、今回はそのまま久し振りに表彰台の頂点に選ばれました。

《決勝結果》
1 J・ハーバート(スチュワート・FC)
2 J・トゥルーリ(プロスト・P)
3 R・バリチェロ(スチュワート・FC)
 ※FCはフォード・コスワース、Pはプジョー


2位と3位は若手同士でトゥルーリとバリチェロが接近した争いをしていましたが、トップのハーバートは荒れに荒れたレースで20秒以上の差をもって余裕で4年振りの3勝目をスチュワート初優勝としました。ベテランが「慌てずしっかり仕事をした」感じです。
肝心なチャンピオン争いしているメンバーはハッキネンの5位2ポイントのみで、この2ポイントが後々「大きな意味」を持ちます。こういうところで、例え小さかろうがポイントがあるかないかが重要だったということを示します。
また、チャンピオン争いと無関係なスチュワートが14,15番手スタートから1位と3位を獲得し、2位も大穴プロストのトゥルーリが10番手スタートから初表彰台という、シーズン終盤でなかなかハラハラする一戦になったと思います。


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スチュワート・グランプリを覚えていますか?以前「名選手、名監督にあらず」で書いたことのある、1997年から3年間参戦していたイギリスのチームです。チームオーナーは偉大なチャンピオンでF1のご意見番でもあるジャッキー・スチュワートとその息子ポールでした。ドライバー時代は自身生まれる前で詳しくはありませんが、その経歴は上回れなかったものの、チーム最終年1999年は最終年であるのが惜しい活躍をみせました。今回はそのマシン「SF3」について書きたいと思います。


《設計》
ゲイリー・アンダーソン
アラン・ジェンキンス
エグバル・ハミディー

《外見》
基本は前回の失敗作SF2からの正常進化で、そこからホイールベース延長やマクラーレンのような角張ったローノーズ、さらにフロントのトーションバーを水平配置として低重心なマシンに変更しました。
白い車体で分かり辛くなっていますが、ローノーズに水平なトーションバーなど、前に挙げた「MP4-13」に発するデザインを採用しており、全体的にマクラーレンとよく似たものとなっています。

エンジンはそれまでのフォードZETEC-Rを止め、軽量なCR-1を採用して低重心化の手助けをします。
カラーリングはスチュワート・グランプリは一貫して「白地に青のタータンチェックの帯」とJ・スチュワートを印象付けるものです。白が基調のマシンはサーキット内でも目立つし、たまたまなのかどのチームも似通ったものですよね。今のウィリアムズFW38が白地にマルティニカラーで何となく似ています。

主なスポンサーはHSBC(香港上海銀行)オイル供給のテキサコなどです。

《エンジン》
フォード コスワースCR-1
V型10気筒・バンク角72度
排気量:2,998cc(推定)
最高回転数:16,500rpm(推定)
最大馬力:780馬力(推定)
スパークプラグ:チャンピオン
燃料・潤滑油:テキサコ

《シャシー》
全長:- mm
全幅:- mm
全高:- mm
最低車体重量:- kg
燃料タンク容量:- ℓ
タイヤ:ブリヂストン
サスペンション:フロント プッシュロッド
                                 リア    プッシュロッド


《ドライバー》
No.16 ルーベンス・バリチェロ(全戦)
No.17 ジョニー・ハーバート(全戦)

《戦績》
36ポイント コンストラクター4位
(1位1回、3位3回、4位2回ほか)
ポールポジション1回

A・セナの後継者と期待されたブラジルの後輩バリチェロとベテランのハーバートを加えた「ひょうきん」コンビです。若くてもチームのキャリアは先輩のバリチェロは苦しい2年を乗り切り、スチュワート・グランプリの全てのシーズンを担い、最終年でこのマシンに出会います。
チーム2年目の1998年は初年度の最高位2位を下回る5位入賞がやっとで、完走すらままならないところまで来てしまっていました。ところがこのマシン3戦目のサンマリノGPでバリチェロが久々の表彰台となる3位を獲得すると第7戦でも3位となり、マクラーレンとフェラーリ以外のチームで表彰台争いに参加できそうなポテンシャルを示し始めます。
クライマックスは第14戦ヨーロッパGP(ニュルブルクリンク)で、雨で荒れに荒れた目まぐるしい1位の入れ替わりを見事に制したハーバートがなんと予選14番手から4年振りの優勝!それも3位バリチェロでダブル表彰台を獲得。それがチームにとって唯一の優勝となってコンストラクターズランキングはフェラーリ、マクラーレン、ジョーダンに次ぐ4番手まで飛躍しました。

バリチェロはこのマシンでの活躍を評価され、翌2000年からE・アーバインと入れ替わる形でフェラーリドライバーに抜擢されます。確かに勝てる強いチームへの移籍ですが、果たしてバリチェロにとっていいキャリアだったかどうかと考えると、悩ましい取り扱いでしたが(笑)


3年目にして優勝を経験したスチュワート・グランプリでしたが、エンジン供給元のフォードによって買収され、緑のジャガーに生まれ変わり、チームの幕を閉じます。これからの時期、と芽が出た矢先に消滅する形になったスチュワート・グランプリ。二強時代を生き抜いたSF3は地味ながらその隙をつく「時の活躍」を見せてくれた一台です。


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