先日から気にはなっていたザウバーブランドは2/1より「アルファロメオ・レーシング」へ改称されました。長く続いた名門プライベーターが無くなるのは寂しいことではありますが、アルファロメオもF1にとって一時代を築いた名門ワークスです。miyabikunの年齢的にもあまり詳しくないこのブランド、これまでの戦績をこのタイミングで簡単にみておこうと思います。

アルファロメオ
初参戦 :1950年第1戦イギリスGP
最終参戦 :1985年第16戦オーストラリアGP
参戦年数 :9年
チーム参戦数:110戦
ドライバー数:18人
優勝獲得数 :10勝 / 110戦
表彰台獲得数:18回 / 110戦
ポールポジション獲得数:12回 / 110戦
ドライバーズチャンピオン:2回
コンストラクターズチャンピオン:0回(2回)

1906年に端を発するイタリアのスポーツカーメーカーです。名前の由来はAnonima Lombarda Fabbrica Automobili の頭文字ALFAと1918年に吸収合併した時の代表ニコラ・ロメオの名前を合体させ「アルファ・ロメオ」となりました。言わずと知れたF1の代名詞「フェラーリ」の創始者エンツォ・フェラーリはこの会社のテストドライバーとして入社し、レーシング部門を担った後に独立、起業していることからアルファロメオの枝分かれであり「母」と表現したことで有名ですよね。
《第1期 モータースポーツ無敵時代》
50年 6回出走 6人出走 予選PP6回 決勝優勝6回
51年 7回出走 7人出走 予選PP4回 決勝優勝4回
アルファロメオとモータースポーツとの関わりはF1が制定、開始されるもっと前の1921年頃からと言われています。F1初年の50年にはレーシングマシンとしてライバルに比べて既に成熟していました。開幕戦ドライバーはF1以前から活躍していたファリーナ43歳、ファンジオ38歳、ファジオーリ51歳(その3人のイニシャルから「3F」と呼ばれる)またパーネルは38歳とライバルと比べて高齢ながらも実力も戦績もトップクラスのラインナップで挑んでいます。初戦イギリスGPでファリーナによる記念すべき初ポールと初優勝を飾り、開催7戦中アメリカのインディアナポリスGPを除く全てで優勝して、ファリーナがF1制定初のチャンピオンを獲得。翌51年はフェラーリのアスカリに2戦優勝を奪われ優勝率こそ減ったものの、ファンジオが初のチャンピオンを獲得します(ただしコンストラクターズチャンピオンシップは当時未制定)

アルファロメオ
初参戦 :1950年第1戦イギリスGP
最終参戦 :1985年第16戦オーストラリアGP
参戦年数 :9年
チーム参戦数:110戦
ドライバー数:18人
優勝獲得数 :10勝 / 110戦
表彰台獲得数:18回 / 110戦
ポールポジション獲得数:12回 / 110戦
ドライバーズチャンピオン:2回
コンストラクターズチャンピオン:0回(2回)

1906年に端を発するイタリアのスポーツカーメーカーです。名前の由来はAnonima Lombarda Fabbrica Automobili の頭文字ALFAと1918年に吸収合併した時の代表ニコラ・ロメオの名前を合体させ「アルファ・ロメオ」となりました。言わずと知れたF1の代名詞「フェラーリ」の創始者エンツォ・フェラーリはこの会社のテストドライバーとして入社し、レーシング部門を担った後に独立、起業していることからアルファロメオの枝分かれであり「母」と表現したことで有名ですよね。
《第1期 モータースポーツ無敵時代》
50年 6回出走 6人出走 予選PP6回 決勝優勝6回
51年 7回出走 7人出走 予選PP4回 決勝優勝4回
アルファロメオとモータースポーツとの関わりはF1が制定、開始されるもっと前の1921年頃からと言われています。F1初年の50年にはレーシングマシンとしてライバルに比べて既に成熟していました。開幕戦ドライバーはF1以前から活躍していたファリーナ43歳、ファンジオ38歳、ファジオーリ51歳(その3人のイニシャルから「3F」と呼ばれる)またパーネルは38歳とライバルと比べて高齢ながらも実力も戦績もトップクラスのラインナップで挑んでいます。初戦イギリスGPでファリーナによる記念すべき初ポールと初優勝を飾り、開催7戦中アメリカのインディアナポリスGPを除く全てで優勝して、ファリーナがF1制定初のチャンピオンを獲得。翌51年はフェラーリのアスカリに2戦優勝を奪われ優勝率こそ減ったものの、ファンジオが初のチャンピオンを獲得します(ただしコンストラクターズチャンピオンシップは当時未制定)

アルファロメオ158は1.5ℓ直列8気筒でスーパーチャージャーによる過給機付きのエンジンを搭載、一方で兄弟チームのフェラーリはアルファロメオが43年に使用した125を改良、過給機付き以外にも4.5ℓV型12気筒のNAエンジンを採用するなど、プロセスの違いもみられました。
2年間はまさに敵無し状態で突き進んだアルファロメオでしたが、資金繰りに苦しみ52年の参戦に合わせ込めず、F1撤退を余儀なくされました。
《第2期 ん?!偽マクラーレン?時代》
79年 5回出走 2人出走 予選14位1回 決勝12位1回
80年 14回出走 4人出走 予選PP1回 決勝5位2回
81年 15回出走 2人出走 予選6位3回 決勝3位1回
82年 16回出走 2人出走 予選PP1回 決勝3位1回
83年 15回出走 2人出走 予選3位2回 決勝2位2回
84年 16回出走 2人出走 予選7位1回 決勝3位1回
85年 16回出走 2人出走 予選4位1回 決勝9位3回
他チームへエンジンを供給しながら長い時を経て、79年にスポーツカーをベースとした3.0ℓ水平対向12気筒を搭載し177と名付けられたマシンで再びF1の舞台に現れます。第13戦イタリアGPから3.0ℓV12気筒エンジンを採用した179のカラーリングはなんとあの「マールボロカラー」をまとっていました。形は違えど異なるチームで同様のカラーリングを施してくるのは今では考えられませんよね。それだけF1とタバコ広告は根強かったことを象徴していると思います。ただ当時のカラーリングはマクラーレンよりアルファロメオの方が「後のマールボロカラー」らしいデザインでした。

80年最終戦となるワトキンスグレンでのアメリカ東GPでジャコメリが復帰後初のポールを獲得するも、表彰台は一年後となる81年の最終戦ラスベガスでのアメリカGPまで待たれることとなります。また82年からは「マールボロといえば」のチェザリスが加入し、83年シーズンにドイツGP、南アフリカGPで2位表彰台2回が精一杯でした。晩年はメインスポンサーがマールボロからベネトンに替わり、マシンカラーも緑に急転します。決勝の戦績は入賞はおろか完走すらできない状況に陥り、85年後半は前年84年に使用した184Tを改良して使用するなど迷走したまま消滅。代わってスポンサーのベネトンがトールマンを買収して参戦開始というワークスにとっては何とも恥ずかしい終わり方となりました。

《スポット参戦時代》
63年 1回出走 1人出走 予選16位1回 決勝リタイヤ
65年 1回出走 1人出走 予選17位1回 決勝10位1回
アルファロメオF1の基本は「2つの時代」から成り立っています。よって上記戦績にはカウントしていませんが「アルファロメオのマシンを使ってスポット参戦していた」ことがありました。63年と65年の南アフリカGP限定でピーター・デ・クラークという南アフリカ人がドライブしています。65年の決勝は10位完走を果たしていますが、当時は今のように10位までが入賞ではありませんでした。残念。
《エンジン供給先》
第1期と第2期の間はワークスとしての参戦ではなく「エンジンを供給する」エンジンワークスとして活躍していたことがあります。中でもブラバムに長きにわたり供給し、78年にはラウダの手によって第8戦スウェーデンGPでかの有名な「ファンカー」ことBT46Bで優勝を飾っています。

71年 マーチ 10戦使用
76年〜79年 ブラバム 62戦使用
83年〜88年 オゼッラ 91戦使用
第1期の戦績が強烈過ぎて、近代(といっても30年近く前)は先細りな感じに見えてしまいますね。ザウバーの名が消え、アルファロメオとして再出発しますが、スタッフなどは引き続きザウバー時代のままでいくそうです。フェラーリやメルセデス、ルノーとは少し違った意味での「ワークス」ではあるものの、予算も増加しドライバーも一新して三度目に挑むアルファロメオの活躍に期待しましょう!
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