年明け以来3ヶ月近く放置してしまっていたあの企画「コレだれGP」を再開したいと思います。忘れていませんでしたか?!まだ完結していませんからね、時間があるこの時期に久々の頭の体操をしておきましょう!今回は前回の1990年代からまたさらに10年昔の1980年代からの出題となります。全戦テレビ放映の前の時代に入りますよー。miyabikunもこの時代生まれの一人ではありますが、現役ドライバーでこの時代生まれなのは最年長のライコネン(79年生まれ)を除き、アロンソを筆頭にハミルトン、ベッテル、リカルド、ボッタスの5人にまで減ります。90年代が中心になりつつある現役ドライバーでも今回の先輩方を知らない子が多くいるかもしれません。
Q①
ヒント:なかなかの甘いマスクではありませんか。当時は大手スポンサーは複数チームにスポンサードしていたこともあり、似通った色のマシンやスーツを見かけましたが、スーツを見る限り、本物のフェラーリのドライバーのようです。1970年代末期から80年代末期と長きに渡ってF1をドライブしたフランス人で、この画像はキャリア中期にあたる83年のものです。チームと年を調べれば自ずと候補が浮かび上がりそうです。母国の新技術、高出力マシンにより予選での速さをウリとし、一時期はチャンピオン候補として名前が挙がったこともありますが、結局チャンピオンになることはできませんでした。ただF1大国の一つであるフランスとしてはいまだに上位の戦績を持ち続けており、ある方に次ぐ2番目に大成したドライバーといえます。現役のガスリーやオコンは彼を上回る戦績を残せるでしょうか。そろそろ超えてもらわらないと困りますね。このドライバーは晩年に日本においてとても滑稽な愛称で呼ばれていました。どうしようかなぁ、大々ヒントになっちゃうなぁ、、「妖怪、、通せんぼ、、」ここまで!(笑)現在もたまにF1のパドックにお見えになりますよね。甘いマスクは変わらずですが、だいぶ丸いマスクになられました。
Q②
ヒント:先程の赤から一転、この方は緑のレーシングスーツを身にまとってインタビューを受けています。見た目の落ち着きっぷりはドライバーというよりインタビュアーやジャーナリストの風貌にも見えますね。ジェントルマンって感じ。80年代前半から90年代前半までF1をドライブしており、日本のファンにも馴染みあるドライバーだと思います。F1では比較的少数派のベルギー出身で近年だとバンドーンの大先輩の位置付けになるでしょうか。ベルギー人ドライバーは2人の優勝経験者がおり、偉大なイクス先輩に次ぐ3勝を挙げています。参戦数でいえば、この方がダントツの最多です。キャリア序盤は中堅チームで腕をならし、87年にベネトンに移籍すると徐々に頭角を示して表彰台にも度々登壇しています。キャリア後半は再び中堅チームで余生を過ごす形になりましたが、その粘り強い走りから日本では「振り向けば、、」なんて愛称が付けられましたね。
Q③
ヒント:まずはシャンパンを振る横顔から。昔の表彰式には優勝者に月桂冠がかけられました。この横顔だけでピンとくる方もいるかもしれません。この方は残念ながら既にこの世にはいませんが、この時代を知らないファンでも、実はこの方の名前だけは毎年何気無く口にし目にしているんですよ。
正面を向いてもらいましょう。顔だけ見ればどことなくマッサにも似ていますが、この方もマッサ同様にフェラーリドライバーだったのですがカナダ出身のドライバーですので血縁関係にはありません。デビューは何と名門マクラーレンからです。77年に入賞はなりませんでしたがたった1戦でエンツォ・フェラーリの目に止まり、そのシーズン終盤には早々とフェラーリに加入するというスピード出世を果たしています。2年目にしてフェラーリに抜擢されたルクレールの上をいく飛び級具合です。それだけこの方の力強い走りはファンのみならずF1関係者の心を掴む走りだったという証です。チャンピオン争いにも名乗りを挙げますが、惜しくも獲得には至らず、82年の予選走行中に壮絶な死を遂げてしまいました。miyabikunも当然ながら死後に名前から知り、過去のビデオでその走りを観た一人ですが、見るからにマシンを振り回し、気持ちが前に前に表れてくるアツい走りをするドライバーだなという印象を受けました。一見危なっかしいんだけど、無機質な車体を通して、今やりたいこと、考えていることがそのままマシンの挙動に表れているような気がして、観ていて飽きません。残念ながらチャンピオンは獲れず殉職してしまったわけですが、我々世代としてはこの方の息子さんの方が馴染みがありますね。目元に名残があります。父の死から15年後にしっかりと息子がチャンピオンを獲得しました。ちなみに親子2代のF1ドライバーとして有名な彼ですが、実は弟もF1ドライバーとして参戦歴があるため「兄弟ドライバー」でもあります。名前は何と息子と同じ!
Q④
ヒント:画像の奥、こちらを向く方が対象となります。パッと見の雰囲気はチームクルーかレプリカを着るファンにも見えてしまいそうですが、この方はmiyabikunの生まれ年のれっきとしたF1チャンピオンです。オーストラリア人2人目、そして現状で最終のチャンピオン獲得者になります。リカルドはこの偉大な先輩に続くことはできるのでしょうか。1970年代中盤から80年代中盤まで活躍したドライバーです。キャリア序盤はチームを転々とし、くすぶっていた時代が長くありました。77年に優勝を含めた表彰台を経験すると、翌78年にウィリアムズに移籍。当時は優勝には縁のないチームながら、そこでようやく頭角を示し、移籍3年目の80年に自身としてもチームとしても初となるチャンピオンを獲得。プライベーターのウィリアムズが名門チームに向かう立役者となりました。ところが翌年81年にチームメイトとの確執があり、F1引退を表明し、以降はスポット的に中堅チームでズルズルと参戦する形でF1から去っています。一度チャンピオンを獲るだけ立派なことなのですが、去り方がちょっとみっともないというか、残念な感じです。今の現役チャンピオン経験者はくれぐれも真似しないように。。
Q⑤
ヒント:こちらも2人写る中の奥の口髭を蓄えた方が対象です。前に映る方は皆さんもよく知っている方でしょう。この立ち位置にいるということは、ドライバーでなくチーム関係者ということになります。南アフリカ出身の彼は元々製図を得意としイギリスに渡り、名門チームであるブラバムのエンジニアとして働いたのがF1に携わるきっかけでした。チーフデザイナーに昇格すると、ユニークなアイデアをふんだんにマシンに投入し、成績も一気に上昇していよいよチャンピオン獲得にあと一歩のところに上り詰めます。グラウンドエフェクトを軽減させるレギュレーションに対して、81年のBT49Cは走行中に車高を変化させる「ハイドロニューマチックサスペンション」なるデバイスを導入、ピケに初チャンピオンをもたらすことに成功しています。またマクラーレンに移籍してからも低重心化に重きを置き、ホンダとのタッグとなった初年88年のMP4/4では全16戦15勝という最強マシンを作り上げました。斬新的なモノコック断面や低重心化、新素材導入など、F1史における著名デザイナーの一人として名を馳せました。「空力の奇才」と呼ばれるエイドリアン・ニューウェイの一代前の空力の奇才にあたります。90年シーズンをもってF1から離れた後は市販車のデザインにシフトし、当時市販車最速の記録を樹立したマクラーレン「F1」というスーパーカー開発に携わっています。
Q⑥
ヒント:強面や、、。結構お歳を召した方のように見えますが、これは1981年の写真で当時39歳。今でいうところのアロンソと同じくらいにあたります。お歳というほどではないものの、若くもないか。アルゼンチン出身のドライバーです。アルゼンチンといえばマラドーナやメッシ、いやいやF1ではファンジオの母国ですね。超偉大な先輩がいながら、参戦数はそんな先輩の3倍近くレースをこなしたこちらもベテランです。F1ドライバーになったのが29歳ですから、スタートから遅咲きでした。いくつかのチームを移籍していますが、デビューがブラバム、続いてフェラーリ、ロータス、そしてチャンピオン獲得後のウィリアムズとそこそこいいチームばかり。ただその経緯を辿るとなかなか複雑なものです。76年の第13戦イタリアに急遽ブラバムからフェラーリにスポットドライブしたきっかけでそのままフェラーリへ移籍を果たしますが、スポットとなった理由は「第10戦ドイツGPで瀕死の事故を起こしたラウダの後任」の位置付けでした。翌77年からレガッツォーニに代わってラウダのチームメイトとして正ドライバーとなるものの、ラウダがチームがこの方に傾いているのに嫌気がさして離脱する結果となり、今回のQ③がチームメイトとして加わります。③の走りが高評価されると、今度は自分の立場が危うくなり、ロータスへの移籍を決めます(その移籍した年にフェラーリはチャンピオン獲得)ロータスでの一年を経て80年にウィリアムズに移籍するとQ④の方がチャンピオンを獲得。翌81年は自分がチャンピオンを獲得せんばかりチームオーダーを無視して優勝を挙げると④との関係が悪化、⑤がデザインしたマシンにチャンピオンを奪われるという「仲違いが自身のキャリアを振り回す」結果に陥ってしまいました。
うん、せっかく優勝しても表彰台でこの表情。もう少し柔らかく、笑顔でいられたらもう一段上の結果をもたらしたかもしれません。ちなみにこの方はすごい記録を持っています。それは「デビュー戦でポールポジション獲得」歴代ではこの方を含めたったの5人しかいません。そのうちの一人には③の息子がいます。
Q⑦
ヒント:どアップ!そしていい笑顔!後ろにチラッと名前が見えちゃっているのはご愛嬌!今ホンダを応援するファンの方々、この方を知らないとなれば怒られちゃいますぞ!少数精鋭のスウェーデン出身で優勝こそないものの、第二期ホンダエンジンを初めてドライブした方です。F1デビューは一応1980年です。一応なんて言い方をしたのは、当時所属したチームがまるで戦闘力が無く、予選すら通過できないという苦い経験をしたためです。初めて予選を通過して決勝レースを戦ったのは83年にホンダエンジンを積むスピリットによるスポット参戦でした。予選14番手、決勝は6周目リタイヤでした。せっかくホンダの復帰に協力したのに、翌84年はシートを失い、84年はまたもティレルからスポット参戦。しかしそのティレルは「水タンク事件」により出場停止。セナに代わってトールマンの代走から一気にシート獲得に向かったものの、そのトールマンも85年開幕戦に出走できないという不遇なキャリア序盤を過ごしています。そんなツイていない彼にチャンスが訪れます。Q①を解雇したことで空きシートができたフェラーリにうまく移籍を果たし、2位表彰台獲得に至りました。その後87年にマクラーレンへ移籍。マクラーレンにホンダが搭載されることが決まってもこの方は選定されず88年はリジェへの移籍を強いられ、なかなか旧友ホンダに再び乗ることはなく下位チームをさまようこととなりました。
これは87年の日本GP。予選10番手から3位表彰台に立つも、2位には以前代走を任され、翌年にシートを奪う形となった方が並んでいます。どことなく浮かぬ顔。
Q⑧
ヒント:マフィアみたいな風貌のおじさんがこちらに向かって来ています。出題しているのがバレたか(笑)この方は見るからにドライバーではありませんが、すごーく力のある方です。力といっても腕力ではなく権力の方です。当時のFIA(国際自動車連盟)兼FISA(国際自動車スポーツ連盟)の会長です。フランス軍を経て、モータージャーナリストに転身、1950年にFFSA(フランス自動車スポーツ連盟)を立ち上げています。そこから徐々に昇格を果たし、1979年にFISAを設立、F1を牛耳る立場になりました。この頃のF1は技術向上に合わせて事故も問題視された時代です。グラウンドエフェクトカー禁止をめぐり、FOCA(F1製造者協会)と対立して一時期は「F1が分裂するのではないか」と騒動となりました。以降グラウンドエフェクトカー禁止、クラッシュテストの導入、ターボエンジン禁止といった安全対策を段階的に取り入れましたが、91年のFISA会長選挙、93年のFIA会長選挙でマックス・モズレーに敗れ退任しています。セナに対して「危険ドライバー」とみなし、スーパーライセンス剥奪する騒動にも発展しました。
Q⑨
ヒント:ん、この顔はもしかしたら、、いやmiyabikunそんな簡単な問題を出すだろうか。その通りです。パッと見は似ていますが、おそらく一瞬よぎった方ではありません。
横から見てみます。違うでしょう。共通点もありますが、別のドライバーです。にしても、こちらもなかなかなイケメンです。今のドライバーがそうじゃないとは言いませんが、ふた昔前くらいのドライバーは結構イケメンが多くいました。この方はイタリアの貴族の子孫で育ちもよろしゅうございます。1979年にデビューし、80年から名門のロータスに移籍、チームメイトはチャンピオン経験者のM・アンドレッティという中、2年目にして2位表彰台をはじめ多く入賞を獲得して打ち負かしたことがあります(チャンピオン経験者を負かす若手、最近もどこかで聞いたことがあるな)翌81年、82年そして84年はマンセルをチームメイトにポイント上で勝り、将来を期待されるドライバーを続けます。しかし85年から加入した若手のセナに対しては速さにおいてやや劣る面がみられ、不遇に感じたこの方はチームを去り、86年からブラバムに乗る選択をします。ところがこの年にQ⑤の設計したマシンは追求し過ぎたが故の安定感に不安のあるマシンであり、シーズン中に行われたポールリカールでの合同テスト中に発生したクラッシュが引き金となり命を落としました。もしこの事故がなければ、もう数年前から日本でF1のテレビ放送が始まっていたら「音速の貴公子」という愛称はこの方が先に呼ばれていたかもしれません。ポールリカールでのフランスGPが行われる度にこの方のことが頭をよぎります。
Q⑩
ヒント:最終問題は日本人枠です。この時代の日本人ドライバーといえばあの方とあの方の2人ですから、違いますね。メガネのフレームの形や大きさが「時代」を感じさせます。高専を卒業後に某自動車メーカーに就職。Q⑦の方がドライブするマシンからF1に関する仕事に従事し、各サプライヤーに対して技術的支援を行いながら86年にコンストラクターズチャンピオン獲得に一役買いました。またQ⑤のデザインしたマシンを含め87年から91年までの5年連続となるドライバーズチャンピオンにも貢献しています。90年には部署異動がありF1から一時期離れたこともありますが、マクラーレンに引き抜かれ「メーカーの人間ではなく、一技術者」として以降フェラーリやザウバーなどのチームを渡り歩いています。日本の方ですから、これ以上のヒントは必要無いでしょう。顔で覚えている方がほとんどだと思いますが、お名前を思い出してみて下さい。何でしたっけ、新井?長谷川、、中本、いや山本、、あっ桜井か?!(笑)
今回はドライバーを多めに選び、一人一人のヒントを厚めに書いてきました。ヒントもなかなか難しいものです。答えをポロって書いちゃいそうだし、出題者のmiyabikunは当然答えを知った上で書いているから難無くとも、突然ご覧になる皆さんは急に見せられてパッと思い出せないこともある。結構頭を捻って書いたつもりです。あと今回の出題はそれぞれが何らかの関係で繋がっているのも面白いです。同じ時代を戦ってきたわけだから当然ちゃ当然ですが(笑)
じっくり思い出して下さい。時間はたっぷりあります。2人で考えてくれても結構ですし、いくつかの候補をもって答え合わせに臨んで頂いても構いません。まだ第2戦までは時間はありますから。この下に答えがあります。準備が整った方からどうぞ!
A①:ルネ・アルヌー
A②:ティエリー・ブーツェン
A③:ジル・ヴィルヌーブ
A④:アラン・ジョーンズ
A⑤:ゴードン・マーレー
A⑥:カルロス・ロイテマン
A⑦:ステファン・ヨハンソン
A⑧:ジャン・マリー・バレストル
A⑨:エリオ・デ・アンジェリス
A⑩:後藤治
いかがでしたでしょうか。超有名ではないけど、全く聞いたことがないという方でもなかったでしょう。80年代ともなると、若いF1ファンの方には厳しかったかもしれません。miyabikunもこれ以上コアな人から選ぼうとするとヒントすら怪しくなってきますのでちょうどいい具合で。
次なる出題は70年代か。チャンピオンばかりでは簡単過ぎるし、miyabikunもちょっと予習や準備が必要だなぁ。たぶんやります。やらなかったら挫けたと思って下さい(笑)あ、あとさらに先に新たなクイズ企画も構想にありますので、またそれはいつか出題しようと思います。
「答えてくれた?!6月にカナダで待ってるよ!」
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Q①
ヒント:なかなかの甘いマスクではありませんか。当時は大手スポンサーは複数チームにスポンサードしていたこともあり、似通った色のマシンやスーツを見かけましたが、スーツを見る限り、本物のフェラーリのドライバーのようです。1970年代末期から80年代末期と長きに渡ってF1をドライブしたフランス人で、この画像はキャリア中期にあたる83年のものです。チームと年を調べれば自ずと候補が浮かび上がりそうです。母国の新技術、高出力マシンにより予選での速さをウリとし、一時期はチャンピオン候補として名前が挙がったこともありますが、結局チャンピオンになることはできませんでした。ただF1大国の一つであるフランスとしてはいまだに上位の戦績を持ち続けており、ある方に次ぐ2番目に大成したドライバーといえます。現役のガスリーやオコンは彼を上回る戦績を残せるでしょうか。そろそろ超えてもらわらないと困りますね。このドライバーは晩年に日本においてとても滑稽な愛称で呼ばれていました。どうしようかなぁ、大々ヒントになっちゃうなぁ、、「妖怪、、通せんぼ、、」ここまで!(笑)現在もたまにF1のパドックにお見えになりますよね。甘いマスクは変わらずですが、だいぶ丸いマスクになられました。
Q②
ヒント:先程の赤から一転、この方は緑のレーシングスーツを身にまとってインタビューを受けています。見た目の落ち着きっぷりはドライバーというよりインタビュアーやジャーナリストの風貌にも見えますね。ジェントルマンって感じ。80年代前半から90年代前半までF1をドライブしており、日本のファンにも馴染みあるドライバーだと思います。F1では比較的少数派のベルギー出身で近年だとバンドーンの大先輩の位置付けになるでしょうか。ベルギー人ドライバーは2人の優勝経験者がおり、偉大なイクス先輩に次ぐ3勝を挙げています。参戦数でいえば、この方がダントツの最多です。キャリア序盤は中堅チームで腕をならし、87年にベネトンに移籍すると徐々に頭角を示して表彰台にも度々登壇しています。キャリア後半は再び中堅チームで余生を過ごす形になりましたが、その粘り強い走りから日本では「振り向けば、、」なんて愛称が付けられましたね。
Q③
ヒント:まずはシャンパンを振る横顔から。昔の表彰式には優勝者に月桂冠がかけられました。この横顔だけでピンとくる方もいるかもしれません。この方は残念ながら既にこの世にはいませんが、この時代を知らないファンでも、実はこの方の名前だけは毎年何気無く口にし目にしているんですよ。
正面を向いてもらいましょう。顔だけ見ればどことなくマッサにも似ていますが、この方もマッサ同様にフェラーリドライバーだったのですがカナダ出身のドライバーですので血縁関係にはありません。デビューは何と名門マクラーレンからです。77年に入賞はなりませんでしたがたった1戦でエンツォ・フェラーリの目に止まり、そのシーズン終盤には早々とフェラーリに加入するというスピード出世を果たしています。2年目にしてフェラーリに抜擢されたルクレールの上をいく飛び級具合です。それだけこの方の力強い走りはファンのみならずF1関係者の心を掴む走りだったという証です。チャンピオン争いにも名乗りを挙げますが、惜しくも獲得には至らず、82年の予選走行中に壮絶な死を遂げてしまいました。miyabikunも当然ながら死後に名前から知り、過去のビデオでその走りを観た一人ですが、見るからにマシンを振り回し、気持ちが前に前に表れてくるアツい走りをするドライバーだなという印象を受けました。一見危なっかしいんだけど、無機質な車体を通して、今やりたいこと、考えていることがそのままマシンの挙動に表れているような気がして、観ていて飽きません。残念ながらチャンピオンは獲れず殉職してしまったわけですが、我々世代としてはこの方の息子さんの方が馴染みがありますね。目元に名残があります。父の死から15年後にしっかりと息子がチャンピオンを獲得しました。ちなみに親子2代のF1ドライバーとして有名な彼ですが、実は弟もF1ドライバーとして参戦歴があるため「兄弟ドライバー」でもあります。名前は何と息子と同じ!
Q④
ヒント:画像の奥、こちらを向く方が対象となります。パッと見の雰囲気はチームクルーかレプリカを着るファンにも見えてしまいそうですが、この方はmiyabikunの生まれ年のれっきとしたF1チャンピオンです。オーストラリア人2人目、そして現状で最終のチャンピオン獲得者になります。リカルドはこの偉大な先輩に続くことはできるのでしょうか。1970年代中盤から80年代中盤まで活躍したドライバーです。キャリア序盤はチームを転々とし、くすぶっていた時代が長くありました。77年に優勝を含めた表彰台を経験すると、翌78年にウィリアムズに移籍。当時は優勝には縁のないチームながら、そこでようやく頭角を示し、移籍3年目の80年に自身としてもチームとしても初となるチャンピオンを獲得。プライベーターのウィリアムズが名門チームに向かう立役者となりました。ところが翌年81年にチームメイトとの確執があり、F1引退を表明し、以降はスポット的に中堅チームでズルズルと参戦する形でF1から去っています。一度チャンピオンを獲るだけ立派なことなのですが、去り方がちょっとみっともないというか、残念な感じです。今の現役チャンピオン経験者はくれぐれも真似しないように。。
Q⑤
ヒント:こちらも2人写る中の奥の口髭を蓄えた方が対象です。前に映る方は皆さんもよく知っている方でしょう。この立ち位置にいるということは、ドライバーでなくチーム関係者ということになります。南アフリカ出身の彼は元々製図を得意としイギリスに渡り、名門チームであるブラバムのエンジニアとして働いたのがF1に携わるきっかけでした。チーフデザイナーに昇格すると、ユニークなアイデアをふんだんにマシンに投入し、成績も一気に上昇していよいよチャンピオン獲得にあと一歩のところに上り詰めます。グラウンドエフェクトを軽減させるレギュレーションに対して、81年のBT49Cは走行中に車高を変化させる「ハイドロニューマチックサスペンション」なるデバイスを導入、ピケに初チャンピオンをもたらすことに成功しています。またマクラーレンに移籍してからも低重心化に重きを置き、ホンダとのタッグとなった初年88年のMP4/4では全16戦15勝という最強マシンを作り上げました。斬新的なモノコック断面や低重心化、新素材導入など、F1史における著名デザイナーの一人として名を馳せました。「空力の奇才」と呼ばれるエイドリアン・ニューウェイの一代前の空力の奇才にあたります。90年シーズンをもってF1から離れた後は市販車のデザインにシフトし、当時市販車最速の記録を樹立したマクラーレン「F1」というスーパーカー開発に携わっています。
Q⑥
ヒント:強面や、、。結構お歳を召した方のように見えますが、これは1981年の写真で当時39歳。今でいうところのアロンソと同じくらいにあたります。お歳というほどではないものの、若くもないか。アルゼンチン出身のドライバーです。アルゼンチンといえばマラドーナやメッシ、いやいやF1ではファンジオの母国ですね。超偉大な先輩がいながら、参戦数はそんな先輩の3倍近くレースをこなしたこちらもベテランです。F1ドライバーになったのが29歳ですから、スタートから遅咲きでした。いくつかのチームを移籍していますが、デビューがブラバム、続いてフェラーリ、ロータス、そしてチャンピオン獲得後のウィリアムズとそこそこいいチームばかり。ただその経緯を辿るとなかなか複雑なものです。76年の第13戦イタリアに急遽ブラバムからフェラーリにスポットドライブしたきっかけでそのままフェラーリへ移籍を果たしますが、スポットとなった理由は「第10戦ドイツGPで瀕死の事故を起こしたラウダの後任」の位置付けでした。翌77年からレガッツォーニに代わってラウダのチームメイトとして正ドライバーとなるものの、ラウダがチームがこの方に傾いているのに嫌気がさして離脱する結果となり、今回のQ③がチームメイトとして加わります。③の走りが高評価されると、今度は自分の立場が危うくなり、ロータスへの移籍を決めます(その移籍した年にフェラーリはチャンピオン獲得)ロータスでの一年を経て80年にウィリアムズに移籍するとQ④の方がチャンピオンを獲得。翌81年は自分がチャンピオンを獲得せんばかりチームオーダーを無視して優勝を挙げると④との関係が悪化、⑤がデザインしたマシンにチャンピオンを奪われるという「仲違いが自身のキャリアを振り回す」結果に陥ってしまいました。
うん、せっかく優勝しても表彰台でこの表情。もう少し柔らかく、笑顔でいられたらもう一段上の結果をもたらしたかもしれません。ちなみにこの方はすごい記録を持っています。それは「デビュー戦でポールポジション獲得」歴代ではこの方を含めたったの5人しかいません。そのうちの一人には③の息子がいます。
Q⑦
ヒント:どアップ!そしていい笑顔!後ろにチラッと名前が見えちゃっているのはご愛嬌!今ホンダを応援するファンの方々、この方を知らないとなれば怒られちゃいますぞ!少数精鋭のスウェーデン出身で優勝こそないものの、第二期ホンダエンジンを初めてドライブした方です。F1デビューは一応1980年です。一応なんて言い方をしたのは、当時所属したチームがまるで戦闘力が無く、予選すら通過できないという苦い経験をしたためです。初めて予選を通過して決勝レースを戦ったのは83年にホンダエンジンを積むスピリットによるスポット参戦でした。予選14番手、決勝は6周目リタイヤでした。せっかくホンダの復帰に協力したのに、翌84年はシートを失い、84年はまたもティレルからスポット参戦。しかしそのティレルは「水タンク事件」により出場停止。セナに代わってトールマンの代走から一気にシート獲得に向かったものの、そのトールマンも85年開幕戦に出走できないという不遇なキャリア序盤を過ごしています。そんなツイていない彼にチャンスが訪れます。Q①を解雇したことで空きシートができたフェラーリにうまく移籍を果たし、2位表彰台獲得に至りました。その後87年にマクラーレンへ移籍。マクラーレンにホンダが搭載されることが決まってもこの方は選定されず88年はリジェへの移籍を強いられ、なかなか旧友ホンダに再び乗ることはなく下位チームをさまようこととなりました。
これは87年の日本GP。予選10番手から3位表彰台に立つも、2位には以前代走を任され、翌年にシートを奪う形となった方が並んでいます。どことなく浮かぬ顔。
Q⑧
ヒント:マフィアみたいな風貌のおじさんがこちらに向かって来ています。出題しているのがバレたか(笑)この方は見るからにドライバーではありませんが、すごーく力のある方です。力といっても腕力ではなく権力の方です。当時のFIA(国際自動車連盟)兼FISA(国際自動車スポーツ連盟)の会長です。フランス軍を経て、モータージャーナリストに転身、1950年にFFSA(フランス自動車スポーツ連盟)を立ち上げています。そこから徐々に昇格を果たし、1979年にFISAを設立、F1を牛耳る立場になりました。この頃のF1は技術向上に合わせて事故も問題視された時代です。グラウンドエフェクトカー禁止をめぐり、FOCA(F1製造者協会)と対立して一時期は「F1が分裂するのではないか」と騒動となりました。以降グラウンドエフェクトカー禁止、クラッシュテストの導入、ターボエンジン禁止といった安全対策を段階的に取り入れましたが、91年のFISA会長選挙、93年のFIA会長選挙でマックス・モズレーに敗れ退任しています。セナに対して「危険ドライバー」とみなし、スーパーライセンス剥奪する騒動にも発展しました。
Q⑨
ヒント:ん、この顔はもしかしたら、、いやmiyabikunそんな簡単な問題を出すだろうか。その通りです。パッと見は似ていますが、おそらく一瞬よぎった方ではありません。
横から見てみます。違うでしょう。共通点もありますが、別のドライバーです。にしても、こちらもなかなかなイケメンです。今のドライバーがそうじゃないとは言いませんが、ふた昔前くらいのドライバーは結構イケメンが多くいました。この方はイタリアの貴族の子孫で育ちもよろしゅうございます。1979年にデビューし、80年から名門のロータスに移籍、チームメイトはチャンピオン経験者のM・アンドレッティという中、2年目にして2位表彰台をはじめ多く入賞を獲得して打ち負かしたことがあります(チャンピオン経験者を負かす若手、最近もどこかで聞いたことがあるな)翌81年、82年そして84年はマンセルをチームメイトにポイント上で勝り、将来を期待されるドライバーを続けます。しかし85年から加入した若手のセナに対しては速さにおいてやや劣る面がみられ、不遇に感じたこの方はチームを去り、86年からブラバムに乗る選択をします。ところがこの年にQ⑤の設計したマシンは追求し過ぎたが故の安定感に不安のあるマシンであり、シーズン中に行われたポールリカールでの合同テスト中に発生したクラッシュが引き金となり命を落としました。もしこの事故がなければ、もう数年前から日本でF1のテレビ放送が始まっていたら「音速の貴公子」という愛称はこの方が先に呼ばれていたかもしれません。ポールリカールでのフランスGPが行われる度にこの方のことが頭をよぎります。
Q⑩
ヒント:最終問題は日本人枠です。この時代の日本人ドライバーといえばあの方とあの方の2人ですから、違いますね。メガネのフレームの形や大きさが「時代」を感じさせます。高専を卒業後に某自動車メーカーに就職。Q⑦の方がドライブするマシンからF1に関する仕事に従事し、各サプライヤーに対して技術的支援を行いながら86年にコンストラクターズチャンピオン獲得に一役買いました。またQ⑤のデザインしたマシンを含め87年から91年までの5年連続となるドライバーズチャンピオンにも貢献しています。90年には部署異動がありF1から一時期離れたこともありますが、マクラーレンに引き抜かれ「メーカーの人間ではなく、一技術者」として以降フェラーリやザウバーなどのチームを渡り歩いています。日本の方ですから、これ以上のヒントは必要無いでしょう。顔で覚えている方がほとんどだと思いますが、お名前を思い出してみて下さい。何でしたっけ、新井?長谷川、、中本、いや山本、、あっ桜井か?!(笑)
今回はドライバーを多めに選び、一人一人のヒントを厚めに書いてきました。ヒントもなかなか難しいものです。答えをポロって書いちゃいそうだし、出題者のmiyabikunは当然答えを知った上で書いているから難無くとも、突然ご覧になる皆さんは急に見せられてパッと思い出せないこともある。結構頭を捻って書いたつもりです。あと今回の出題はそれぞれが何らかの関係で繋がっているのも面白いです。同じ時代を戦ってきたわけだから当然ちゃ当然ですが(笑)
じっくり思い出して下さい。時間はたっぷりあります。2人で考えてくれても結構ですし、いくつかの候補をもって答え合わせに臨んで頂いても構いません。まだ第2戦までは時間はありますから。この下に答えがあります。準備が整った方からどうぞ!
A①:ルネ・アルヌー
A②:ティエリー・ブーツェン
A③:ジル・ヴィルヌーブ
A④:アラン・ジョーンズ
A⑤:ゴードン・マーレー
A⑥:カルロス・ロイテマン
A⑦:ステファン・ヨハンソン
A⑧:ジャン・マリー・バレストル
A⑨:エリオ・デ・アンジェリス
A⑩:後藤治
いかがでしたでしょうか。超有名ではないけど、全く聞いたことがないという方でもなかったでしょう。80年代ともなると、若いF1ファンの方には厳しかったかもしれません。miyabikunもこれ以上コアな人から選ぼうとするとヒントすら怪しくなってきますのでちょうどいい具合で。
次なる出題は70年代か。チャンピオンばかりでは簡単過ぎるし、miyabikunもちょっと予習や準備が必要だなぁ。たぶんやります。やらなかったら挫けたと思って下さい(笑)あ、あとさらに先に新たなクイズ企画も構想にありますので、またそれはいつか出題しようと思います。
「答えてくれた?!6月にカナダで待ってるよ!」
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