F1 えきぞーすとのーと

よくあるニュースネタやこ難しいテクニカルな話ではなく、メインは予選や決勝のTV観戦したそのものを個人的観点から綴るF1ブログです。  また、懐かしのマシンやレースを振り返ったり、記録やデータからF1を分析。その他ミニカーやグッズ集めも好きなので、それらを絡めつつ広く深くアツくF1の面白さやすごさを発信し、楽しんでもらえたらいいなと思っています。

カテゴリ: この人だあれ?

先日モナコGPの行われた翌日の5/24に前FIA会長を務めたマックス・モズレーが亡くなりました。ちょうどmiyabikunがF1を観だした頃に前々会長のジャン・マリー・バレストルから引き継ぐ形となり、その後のF1の方向性を変えたり、ドライバーに厳しく批判するなどmiyabikun個人的にはあまりいいイメージがなく、怖い方ということが先行してしまいますが、近代F1の礎を整えた功労者であるともいえます。若いF1ファンはご存知でない方も多いかと思いますので、簡単ではありますが略歴を振り返り、追悼したいと思います。

FullSizeRender
マックス・モズレー
 1940年4月13日生まれ(イギリス)
  オックスフォード大学にて物理学を専攻
  ロンドン法学院にて弁護士の資格取得
 1969年にマーチ設立
 1978年にFOCAの法律アドバイザー就任
 1991年にFISA会長就任
 1993年FISA吸収によりFIA会長に就任
 2009年にFIA会長を満了
 2021年5月24日没(81歳)

イギリス出身で元は大学で物理学を専攻していたものの、卒業後に法曹の世界を目指し、弁護士の資格を取得しています。本職は弁護士として手腕を振るいますが、その傍ら趣味でモータースポーツも勤しみ、ドライバーとしてF2に参戦しています。それをきっかけにドライバーを引退後「マーチ」(晩年は日本のレイトンハウス)というコンストラクターを立ち上げ、1970年シーズンからF1にシャシー提供という形で参戦を果たしました。このマーチという名は創始者4人の頭文字、マックス・モズレーのM、アラン・リースのAとR、グラハム・コーカーのC、そしてロビン・ハードのHを組み合わせた「MARCH」からきています。
1970年は前年にチャンピオンを獲得したティレルへシャーシを提供、スチュワートやエイモン、また成長著しいセベールやピーターソンなどがドライブし、スチュワートによるポールポジションや優勝を早々に経験します。以降もピーターソンやハントなどが活躍するシーズンはあるものの、成績はトップチームには程遠く、モズレー自身は1977年にチームを離れ、チーム自身は晩年のカペリによる奮闘の後、レイトンハウスの撤退により資金難のため1992年シーズンをもって消滅しています。
モズレーは法律の専門家である知識を活かし、マーチから離れた翌年の1978年にブラバムのチーム代表であるバーニー・エクレストンが会長を務めるFOCA(F1コンストラクター協会)にアドバイザーとなります。そこでFIA(国際自動車連盟)の下部組織にあたるFISA(国際自動車スポーツ連盟)と「グラウンドエフェクトカーの規制」により対立した際は調停役を務め、1981年に「コンコルド協定」を結ぶことに成功しています。
1991年にFISA会長を務めるジャン・マリー・バレストル相手に選挙で勝ち会長職に、さらに1993年にFIA会長に就任するとFISAを吸収します。FIAでは2009年までの4期16年歴任、様々な安全対策やコスト削減対策を提唱することとなります。その時代の代表的なレギュレーション変更を下に並べてみます。

《就任中の代表的なマシンレギュレーション変更》
1994年シーズンから
・電子制御デバイスの各種搭載禁止
 アクティブサスペンション
 トラクションコントロールシステム(TCS)
 アンチロックブレーキシステム(ABS)
 四輪操舵システム(4WS)など
・決勝レース中の再給油復活IMG_9800
1994年シーズン途中から
・フロアパネルに木製スキッドブロックの取付
・エンジンカバー後部にラム圧低下の開口設置
1995年から
・エンジン排気量を3,000ccに統一
・サイドクラッシャブルストラクチャー試験を導入
1996年から
・コクピット開口拡大とプロテクター装着義務化
1997年から
・後部クラッシャブルストラクチャー試験を導入

IMG_9801
1998年から
・グループド(溝付き)タイヤ導入
・マシン全幅を1,800mm以下に縮小
1999年から
・外部からの救出が容易なセーフティシート導入
・ホイール脱落防止装置の義務化
2000年から
・クラッシュテストの衝突速度の引き上げ
2002年から
・電子制御のパワーステアリング禁止
2003年から
・予選と決勝で使用できるエンジンは1基
・予選終了から決勝前のマシン改良禁止
・頭部前傾抑制装置(HANS)の装着義務化
2004年から
・1レースで使用できるエンジンは1基
・ローンチコントロールシステムの禁止
2005年から
・2レースで使用できるエンジンは1基
2006年から
・エンジンをV型8気筒2,400ccに統一
・リヤのクラッシュテストの衝突速度の引き上げ
2007年から
・エンジン回転数は19,000rpm以下に制限
2008年から
・電子制御ユニット(ECU)の共通化
・2001年に復活したトラコン(TCS)の再禁止
・ギヤボックスは4レース1基
2009年から
・エンジン回転数は18,000rpm以下に制限
・シーズンのエンジン基数の制限
・グループドタイヤ廃止、スリックタイヤ復活
・運動エネルギー回生システム(KERS)導入
・ウィングをはじめとしたダウンフォース低下措置

IMG_9797

全てがモズレーの指示や思想によるものではありませんが、モズレー政権の16年間の代表的なマシンレギュレーションをみても、私達F1ファンの記憶にあるものばかりで、段階的な速度低下や安全対策強化、そしてエンジン基数制限などのコスト削減に奔走していたことがうかがえます。中には「せっかく速くなったマシンを遅くして」とか「基数制限やペナルティが煩わしい」と思える賛否両論も多くありますが、F1はこれら「統一された厳しいレギュレーションの中で競う」のが基本であり、どうしても技術向上の足かせとなったり、ドライバースキルの差が出し難い環境でバトルしていかなければならない点についてはこれから先のF1にも続くことです。IMG_9798
IMG_9799

退任前年の2008年にはココでは細かく取り扱いませんが「私的活動」が明るみとなり問題となりました。結果的にこれまでの厳格さが一気に削がれることとなり、次期FIA会長選挙に出馬せず、2009年の任期満了で会長職を降り、前フェラーリの監督であるジャン・トッドに引き継がれることとなりました。まあこの点はmiyabikunにはその癖や欲がないため、同意はしかねますが、プライベートのことで辱められるのも可哀想だし惨めだなと当時思いました。

ワークスやメーカー、ドライバーが進化してもレギュレーションによって打たれてしまう。上記の規定や改革によりいたちごっこが続いたわけですが、その中でも皆がそのレギュレーションに従い、多くの名シーンやバトル、ドラマ、そして今に続く歴史を築いてきました。16年という期間ではあるものの、モズレーがそれらの歴史を指揮していたわけです。安全対策についても、就任2年目の1994年に2人のドライバーが命を落としてしまいますが、以降就任中のF1ドライバーの死亡事故が起こることはありませんでした。もしかしたら、これらのレギュレーションや大小によらない懲罰などがなければ、もっと起きていたのかもしれないと考えると、まんざらでもなかったのかなと思います。

FullSizeRender
退任後のF1をモズレーはどう見守ってきたのでしょうか。今日までのF1の歴史に大きく関わったモズレーに心よりご冥福をお祈りします。

にほんブログ村 車ブログ F1へ
にほんブログ村
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

前回4月の上旬に差し込んだ「F1コレだれGP」の続編、1970年編です。さあここからは日本での毎戦テレビ中継もありませんし、miyabikunも完全に生まれる前の話となり、追いかけ観戦とその知識、印象で書いていく形となります。難易度も高くなってきますが、若いF1ファンの方にもとっつきやすい方からの出題としましたので、臆することなくチャレンジしてみて下さい。

Q①
IMG_9115
ヒント:眩しそうな目に高い鷲鼻、そして口髭。いかにもヨーロピアンで高貴な面持ちが漂っています。それもそのはず、2回のF1チャンピオンです。デビューは二十代半ばから始め、1958年からF1をドライブし、4年目にあたる62年とそこから6年後の68年にチャンピオンを獲得しました。活躍の場はF1に止まらず、スポーツカーレースや耐久レースにも参戦。F1モナコGP、インディ500、ル・マン24時間レースの全てで優勝を挙げた「唯一の世界3大レースの覇者」という輝かしい戦績を持つ者です。顔を知らずとも、そのキーワードはこの世に一人しかいませんのでかなりのヒントですね。
モータースポーツを生業とする前はボート競技を行なっていたこともあって、愛用のヘルメットは黒地に8本の白いオールが描かれたデザインを使用していました。また息子もF1ドライバーであり、父が初めてチャンピオンを獲得した35年後にこちらもF1史上初となる「親子二代のF1チャンピオン」を成し遂げています。
IMG_9155
これらの画像は晩年の70年や73年のものですが、別チームのマシンを買い取り、プライベーターとして参戦していた頃になります。輝かしい1960年とは裏腹、チャンピオンや3大レース覇者も苦戦を強いられ、入賞すらできない日々が続きました。そして75年のシーズンオフに行われたポール・リカールでの帰路で自ら操縦する飛行機が墜落。チームのドライバーと共に命を落とし、息子のF1デビューを見届けることはできませんでした。

Q②
IMG_9158
ヒント:3人のドライバーが表彰式で優勝者に贈られる月桂冠にところ狭しと入り込んでいます。今回のターゲットは向かって右のドライバーになります。中央と左のドライバーは皆さんもご存知ですよね。右の方はあまり見慣れないかもしれませんが、今現役でF1観戦しているファンであれば100%近く名前を知る超有名人なんです。
1972年にF1デビューを果たし、この後登場するQ⑥の方と共にまだF1発展途上であったブラジルをF1大国にしたパイオニアといえます。戦績こそQ⑥の方に遠く及びませんでしたが、唯一の優勝は何と地元のブラジルGPです。しかし参戦6年目となる77年にこちらも航空機事故により現役ドライバーの最中に命を落としてしまいます。大きな期待はされつつもチャンピオンにはなれず、優勝はたったの一度きり。以降も母国からは優秀な戦績や多くの優勝を重ねたドライバーは生まれつつも、彼の栄光を讃え、唯一優勝を挙げたサーキットは彼の名前に改称されています。

Q③
IMG_9167
ヒント:周りの大人に比べて随分小柄な方ですね。ポケットに手を突っ込んで何やら話しています。生意気にみえますが、れっきとした大人であり、これでもチームオーナーです。横顔だけじゃわからないって?!それではこちらを向いている画像を一枚。
IMG_9168
コクピットに座るラウダに対してこちらも何やら指示出ししています。最近はあまり見る機会は無くなりましたが、80年代くらいまでは監督やオーナーがよくコクピットに座るドライバーに顔を寄せて語りかけたり指示を出す光景がみられました。ヒントとしては「ラウダがドライブするあるチームのオーナー」ということになります。

この方自身もF1をドライブしたことがあり、1958年に2回ほど参戦しています。60年代にあるドライバーをマネージメントする立場となりF1の世界に復帰、見事にチャンピオンを獲得するまでにのし上げた経歴を持ちます。70年代に入ると、あるプライベートチームを買収してチームオーナーとなり、ラウダやピケといったドライバーを起用して80年代にしっかりチャンピオンを獲得するという敏腕っぷり。その後はさらに上のステージである「F1を統括する立場」まで上り詰めます。今も存命の方ではありますが、驚くのは髪の色や顔のハリこそ変わったものの、今でも風貌はほとんど変わりません。昨年御歳89にしてお子さんが産まれたことでも話題となりました。若いワケです。

Q④
IMG_9118
ヒント:月桂冠を片手に表彰台から降りてくる様子です。月桂冠を受け取っているということはF1で優勝経験があるということです。ベルギー出身のこのドライバーは1967年にF1デビューし、79年まで120戦ものレース参戦し、8勝を挙げたベテランの一人です。
元々父親がモータースポーツに関する仕事をしており、それがきっかけでモータースポーツを始めたといわれています。当初は二輪で腕を鳴らし1965年から四輪に転向後、ケン・ティレルに見初められてF2をドライブする機会を得ました。昔はF1にF2マシンが混ざって行われることも多く、67年の第7戦ドイツGPでは何とF1マシンを凌ぐ速さを見せ、F1昇格を果たしています。参戦3年目の69年にランキング2位、翌70年もランキング1位がシーズン中に死去したにも関わらず2位に終わり、残念ながらチャンピオン獲得には至りませんでした。前にもこのブログで書いたことがありますが、今現役バリバリのノリスくんをみる度にこの方を思い出しています。IMG_9117
画像向かって右側がこの方。どことなく似ていませんか?!miyabikunだけかな。この方は今でもご存命です。

Q⑤
IMG_9119
ヒント:こちらも表彰式での一コマ。今回は優勝した方ではなく、画像右端の方です。フランス出身で幼い頃は長きに渡りピアノを習っていたようですが、この方のお姉さんに紹介されたドライバーがきっかけでモータースポーツに勤しむようになり、父の反対を振り切りレーシングスクールに通うようになったと言われています。下位カテゴリーを着実にクリアし、Q④の方と同様にF2マシンをドライブしていると、練習を兼ねて参戦していたあるF1チャンピオンであるスチュワートの目に止まり、1970年第5戦オランダGPからF1のステップアップしています。恩人であるスチュワートと同じチームに加入すると目論見通りいい走りをし、翌71年には早くも数回の表彰台に登壇。また最終戦アメリカGPではQ④の方のリタイヤが功を奏し、F1初優勝を挙げ、将来を嘱望されるドライバーの一人となりました。ところが初優勝から2年後の73年最終戦アメリカGP予選にてコントロールを失いガードレールに激突し即死。日頃から安全面に注意を促していたにも関わらず、愛弟子を失ったスチュワートはそのレースの出走を急遽取り止め、併せてステアリングを置くきっかけにもなりました。この方も先程のQ④と同様に現役のある方をみると連想してしまいます。さて誰でしょう?!IMG_9152
似てねーしと言われるのも悔しいので、誰のことを言っているかはご想像にお任せします(笑)

Q⑥
IMG_9150
ヒント:先程Q②で出てきた方と同郷の方にはなりますが、前述の通りこちらの方の方が戦績としては上です。ブラジル人初のF1チャンピオン獲得者です。実はQ⑤の2枚目の奥にもチラリと横顔が写っています。太く濃いもみあげがトレードマークです。F1デビューはQ④より2年早い1970年のロータスからでした。デビューしてわずか3シーズン目の72年に早くも25歳にしてチャンピオン獲得を果たし、これは当時の最年少記録でした(この記録は2005年にアロンソが塗り替えるまで33年間保持していました)この方の特徴は最年少記録に止まりません。F1にも稀にいる兄弟F1ドライバーであった点。甥っ子に止まらず孫までF1をドライブしています。また自ら自分のチームを立ち上げF1参戦も経験。さらにはF1と並びフォーミュラカーの頂点に君臨するインディカー(当時はCART)チャンピオンも獲得しています。ちなみにF1とインディカーの両方でチャンピオンを獲得したことのあるのはこの方を含めたったの4人しかいません。

Q⑦
IMG_9156
ヒント:こちらの対象もQ③と同様にドライバーに近付き自ら指示出しするこのお方になります。横顔とはいえこの輪郭にこの髪型って、、あの人しか思い浮かばないんだけど、、おそらくその方で正解です。今から48年前の画像なんですが、今現在と全く変わりませんね。ということは、、若くしてあの髪型におなりになったというワケです(笑)若かりし頃は自らがドライバーやメカニックを行った経験もありますが、1966年に中古のF1マシンを購入し、ドライバーを雇ってレース参戦するいわば「プライベーター」の形でF1に関わるようになります。一度資金が底をつき、撤退を余儀なくされますが77年に再びチームを立ち上げ、それが今でも続く老舗チームとなっています(ただし現在は名前だけ)79年にレガッツォーニの手により初優勝を挙げ、翌80年にはジョーンズによってチャンピオンを獲得するに至ります。今回の時代から対象が外れますが、80年代から90年代は数々の優勝とチャンピオンを重ね「最強プライベートチーム」に君臨してきました。今でこそ、、まあここまでで答えはわかりますよね(笑)ではオマケにもう一枚。
IMG_9160
あるドライバーと談笑しています。このドライバーは雇ったことがないのですが、この画像で一つ気になる点がありませんか?!そう、立っているんです。さっきの1枚目もそうでしたが、80年代前半まではトレードマークの一つである車椅子には乗っておらず、自ら二足歩行されていました。86年にポール・リカールから空港に向かう車で交通事故に遭い、下半身麻痺を患ってしまいました。またポール・リカールか。ちなみにクレア姉はこの画像の頃にお産まれになっています。

Q⑧
IMG_9114
ヒント:とても高速なF1マシンをドライブしそうもない穏やかな顔つきでいらっしゃいますが、この方もドライバーの一人です。顔だけではピンと来ないかもしれませんが、先程のQ②の方と同様に今F1を観ている方であれば、嫌でも名前は知っているはず。いや知らないわけがない!

1963年デビューのメキシコ人ドライバーです。あ、この時点でわかった人も多いと思います。モータースポーツのきっかけは二輪で57年から四輪のレースに切り替えています。この方も「兄弟F1ドライバー」の一人ですが、デビューは弟の方が早く、弟が事故死した2年後にこのお兄さんがF1参戦しています。67年開幕戦の南アフリカGPで初優勝、70年第4戦ベルギーGPで2度目の優勝を経験しますが、71年のシーズン中に参戦したスポーツカーレースでクラッシュし命を落としてしまいました。F1で奮闘して共に命を落とした勇姿を讃え、母国のサーキットにはこの兄弟のファミリーネームが名付けられました。ここまで来ればわかったも同然かと思いますが、サーキット名に使われている名前がそのままこの方の名前ではありませんので気を付けて下さいね!あくまでこの方の名前をファーストネームでお答え下さい。

Q⑨
IMG_9149
ヒント:この顔、どこかで見たことありませんか?!昨シーズンもF1にいましたし、今シーズンももちろんサーキットのどこかに必ずいます。当然現役のドライバーではありませんが、ほらフェルスタッペンを応援する方、角田くんを応援するファンの方、知ってなきゃ怒られちゃいますよ!オーストリア出身のF1ドライバーでマクラーレンからデビューしました。ドライバーになる前に弁護士の資格をお持ちになっています。デビュー戦となった1971年ドイツGPの成績は、、予選落ち(笑)その後B・R・M(ブリティッシュ・レーシング・モータース)から9レース参戦するも最高位は72年のモナコGP8位完走(入賞圏外)でした。何だー今偉そうにあーだこーだいう割に、ドライバーの戦績は大したことないんじゃん!なんて、口が裂けても言えぬ、、(笑)

この方の手腕は先程のQ③の方と同じく、ドライバー引退後のマネージメントの方で活かされました。母国の後輩であるベルガーやヴェンドリンガーをF1の世界に導き、今ではオーストリアのあるチームの、、目元は今でも変わらないでしょう?!確か今日4/27が誕生日だったと思います。おめでとうございます。

Q⑩
IMG_9151
ヒント:口髭にハンチングを被るのがトレードマーク。この時代に活躍した人でこの特徴とくればあの人しかいない!この方はドライバーの出はなくエンジニアの出です。イギリスの大学で機械工学を学び、中でも航空宇宙工学の知識は豊富であったといいます。その知識を強みに自動車メーカーを立ち上げ、F1に参入し「新たな技術」を次々と投入したことで名を馳せた方になります。
数多くある技術の中でも大当たりし、ライバル達に急速に波及したものの一つに「グラウンドエフェクト」というものがあります。マシンを「一枚の羽根」に例え、航空機の羽根を上下逆さまにした様な形状とし、フロアの後端を跳ね上げることで強力なダウンフォースを得るという技法です。見事にこの技術でライバルを圧倒し、チャンピオンを獲得したわけですが、理想的な姿勢を乱した瞬間に危険な挙動を示すことが明らかとなり、使用禁止となったものの、この技術は現代のF1においてもレギュレーションの隙を縫った形で取り入れたいと考えるデザイナーが多くおり、今後もしかしたら復活するかもしれないという話もありますね。ほか、この方のアイデアは技術面に止まらず「F1マシン自体を広告塔にしてスポンサーマネーを得よう」というものもあり、俗にいう「たばこ広告」を真っ先に取り入れた人でもあります。実に頭脳明せきのアイデアマンですね。この方はレース後のこの仕草も有名です。自らのチームが優勝すると、、
IMG_9161
トラック内に立ち入り
IMG_9162
帽子をぶん投げて喜んじゃう!(笑)今では絶対に許されない行為です。


という10問でした。今回は日本人無し。ただ現在にも何らか関わる方達が多く、ヒントはたっぷり目に、画像ヒントも少しオマケに出題してみました。いかがでしたでしょうか。答え合わせの前にぶん投げた帽子は危ないから拾っておいて下さいね!IMG_9163
投げた後、拾いに戻るのが恥ずかしいですね(笑)準備はよろしいでしょうか。答え合わせいきます。


 A①:グラハム・ヒル
 A②:カルロス・パーチェ
 A③:バーニー・エクレストン
 A④:ジャッキー・イクス
 A⑤:フランソワ・セベール
 A⑥:エマーソン・フィッティパルディ
 A⑦:フランク・ウィリアムズ
 A⑧:ペドロ・ロドリゲス
 A⑨:ヘルムート・マルコ
 A⑩:コーリン・チャップマン

この位の時代ともなると、中にはすでにお亡くなりになった方も多くなってきますね。存命の方は少しでも長生きして頂きたいなと思います。このクイズ「F1コレだれGP」も1970年代編を最終回とします。また次回、早くも新シリーズの構想を準備していますので、整いましたら出題しようと思います。IMG_9166
JH「オレ様を出題しないとは、イカれてるぜ」
NL「安心しろ、私は2回ともバーターだ」

にほんブログ村 車ブログ F1へ
にほんブログ村
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

年明け以来3ヶ月近く放置してしまっていたあの企画「コレだれGP」を再開したいと思います。忘れていませんでしたか?!まだ完結していませんからね、時間があるこの時期に久々の頭の体操をしておきましょう!今回は前回の1990年代からまたさらに10年昔の1980年代からの出題となります。全戦テレビ放映の前の時代に入りますよー。miyabikunもこの時代生まれの一人ではありますが、現役ドライバーでこの時代生まれなのは最年長のライコネン(79年生まれ)を除き、アロンソを筆頭にハミルトン、ベッテル、リカルド、ボッタスの5人にまで減ります。90年代が中心になりつつある現役ドライバーでも今回の先輩方を知らない子が多くいるかもしれません。

Q①
IMG_8906
ヒント:なかなかの甘いマスクではありませんか。当時は大手スポンサーは複数チームにスポンサードしていたこともあり、似通った色のマシンやスーツを見かけましたが、スーツを見る限り、本物のフェラーリのドライバーのようです。1970年代末期から80年代末期と長きに渡ってF1をドライブしたフランス人で、この画像はキャリア中期にあたる83年のものです。チームと年を調べれば自ずと候補が浮かび上がりそうです。母国の新技術、高出力マシンにより予選での速さをウリとし、一時期はチャンピオン候補として名前が挙がったこともありますが、結局チャンピオンになることはできませんでした。ただF1大国の一つであるフランスとしてはいまだに上位の戦績を持ち続けており、ある方に次ぐ2番目に大成したドライバーといえます。現役のガスリーやオコンは彼を上回る戦績を残せるでしょうか。そろそろ超えてもらわらないと困りますね。このドライバーは晩年に日本においてとても滑稽な愛称で呼ばれていました。どうしようかなぁ、大々ヒントになっちゃうなぁ、、「妖怪、、通せんぼ、、」ここまで!(笑)現在もたまにF1のパドックにお見えになりますよね。甘いマスクは変わらずですが、だいぶ丸いマスクになられました。

Q②
IMG_8909
ヒント:先程の赤から一転、この方は緑のレーシングスーツを身にまとってインタビューを受けています。見た目の落ち着きっぷりはドライバーというよりインタビュアーやジャーナリストの風貌にも見えますね。ジェントルマンって感じ。80年代前半から90年代前半までF1をドライブしており、日本のファンにも馴染みあるドライバーだと思います。F1では比較的少数派のベルギー出身で近年だとバンドーンの大先輩の位置付けになるでしょうか。ベルギー人ドライバーは2人の優勝経験者がおり、偉大なイクス先輩に次ぐ3勝を挙げています。参戦数でいえば、この方がダントツの最多です。キャリア序盤は中堅チームで腕をならし、87年にベネトンに移籍すると徐々に頭角を示して表彰台にも度々登壇しています。キャリア後半は再び中堅チームで余生を過ごす形になりましたが、その粘り強い走りから日本では「振り向けば、、」なんて愛称が付けられましたね。

Q③
IMG_8902
ヒント:まずはシャンパンを振る横顔から。昔の表彰式には優勝者に月桂冠がかけられました。この横顔だけでピンとくる方もいるかもしれません。この方は残念ながら既にこの世にはいませんが、この時代を知らないファンでも、実はこの方の名前だけは毎年何気無く口にし目にしているんですよ。
IMG_8903
正面を向いてもらいましょう。顔だけ見ればどことなくマッサにも似ていますが、この方もマッサ同様にフェラーリドライバーだったのですがカナダ出身のドライバーですので血縁関係にはありません。デビューは何と名門マクラーレンからです。77年に入賞はなりませんでしたがたった1戦でエンツォ・フェラーリの目に止まり、そのシーズン終盤には早々とフェラーリに加入するというスピード出世を果たしています。2年目にしてフェラーリに抜擢されたルクレールの上をいく飛び級具合です。それだけこの方の力強い走りはファンのみならずF1関係者の心を掴む走りだったという証です。チャンピオン争いにも名乗りを挙げますが、惜しくも獲得には至らず、82年の予選走行中に壮絶な死を遂げてしまいました。miyabikunも当然ながら死後に名前から知り、過去のビデオでその走りを観た一人ですが、見るからにマシンを振り回し、気持ちが前に前に表れてくるアツい走りをするドライバーだなという印象を受けました。一見危なっかしいんだけど、無機質な車体を通して、今やりたいこと、考えていることがそのままマシンの挙動に表れているような気がして、観ていて飽きません。残念ながらチャンピオンは獲れず殉職してしまったわけですが、我々世代としてはこの方の息子さんの方が馴染みがありますね。目元に名残があります。父の死から15年後にしっかりと息子がチャンピオンを獲得しました。ちなみに親子2代のF1ドライバーとして有名な彼ですが、実は弟もF1ドライバーとして参戦歴があるため「兄弟ドライバー」でもあります。名前は何と息子と同じ!

Q④
IMG_8900
ヒント:画像の奥、こちらを向く方が対象となります。パッと見の雰囲気はチームクルーかレプリカを着るファンにも見えてしまいそうですが、この方はmiyabikunの生まれ年のれっきとしたF1チャンピオンです。オーストラリア人2人目、そして現状で最終のチャンピオン獲得者になります。リカルドはこの偉大な先輩に続くことはできるのでしょうか。1970年代中盤から80年代中盤まで活躍したドライバーです。キャリア序盤はチームを転々とし、くすぶっていた時代が長くありました。77年に優勝を含めた表彰台を経験すると、翌78年にウィリアムズに移籍。当時は優勝には縁のないチームながら、そこでようやく頭角を示し、移籍3年目の80年に自身としてもチームとしても初となるチャンピオンを獲得。プライベーターのウィリアムズが名門チームに向かう立役者となりました。ところが翌年81年にチームメイトとの確執があり、F1引退を表明し、以降はスポット的に中堅チームでズルズルと参戦する形でF1から去っています。一度チャンピオンを獲るだけ立派なことなのですが、去り方がちょっとみっともないというか、残念な感じです。今の現役チャンピオン経験者はくれぐれも真似しないように。。

Q⑤
image
ヒント:こちらも2人写る中の奥の口髭を蓄えた方が対象です。前に映る方は皆さんもよく知っている方でしょう。この立ち位置にいるということは、ドライバーでなくチーム関係者ということになります。南アフリカ出身の彼は元々製図を得意としイギリスに渡り、名門チームであるブラバムのエンジニアとして働いたのがF1に携わるきっかけでした。チーフデザイナーに昇格すると、ユニークなアイデアをふんだんにマシンに投入し、成績も一気に上昇していよいよチャンピオン獲得にあと一歩のところに上り詰めます。グラウンドエフェクトを軽減させるレギュレーションに対して、81年のBT49Cは走行中に車高を変化させる「ハイドロニューマチックサスペンション」なるデバイスを導入、ピケに初チャンピオンをもたらすことに成功しています。またマクラーレンに移籍してからも低重心化に重きを置き、ホンダとのタッグとなった初年88年のMP4/4では全16戦15勝という最強マシンを作り上げました。斬新的なモノコック断面や低重心化、新素材導入など、F1史における著名デザイナーの一人として名を馳せました。「空力の奇才」と呼ばれるエイドリアン・ニューウェイの一代前の空力の奇才にあたります。90年シーズンをもってF1から離れた後は市販車のデザインにシフトし、当時市販車最速の記録を樹立したマクラーレン「F1」というスーパーカー開発に携わっています。

Q⑥
IMG_8898
ヒント:強面や、、。結構お歳を召した方のように見えますが、これは1981年の写真で当時39歳。今でいうところのアロンソと同じくらいにあたります。お歳というほどではないものの、若くもないか。アルゼンチン出身のドライバーです。アルゼンチンといえばマラドーナやメッシ、いやいやF1ではファンジオの母国ですね。超偉大な先輩がいながら、参戦数はそんな先輩の3倍近くレースをこなしたこちらもベテランです。F1ドライバーになったのが29歳ですから、スタートから遅咲きでした。いくつかのチームを移籍していますが、デビューがブラバム、続いてフェラーリ、ロータス、そしてチャンピオン獲得後のウィリアムズとそこそこいいチームばかり。ただその経緯を辿るとなかなか複雑なものです。76年の第13戦イタリアに急遽ブラバムからフェラーリにスポットドライブしたきっかけでそのままフェラーリへ移籍を果たしますが、スポットとなった理由は「第10戦ドイツGPで瀕死の事故を起こしたラウダの後任」の位置付けでした。翌77年からレガッツォーニに代わってラウダのチームメイトとして正ドライバーとなるものの、ラウダがチームがこの方に傾いているのに嫌気がさして離脱する結果となり、今回のQ③がチームメイトとして加わります。③の走りが高評価されると、今度は自分の立場が危うくなり、ロータスへの移籍を決めます(その移籍した年にフェラーリはチャンピオン獲得)ロータスでの一年を経て80年にウィリアムズに移籍するとQ④の方がチャンピオンを獲得。翌81年は自分がチャンピオンを獲得せんばかりチームオーダーを無視して優勝を挙げると④との関係が悪化、⑤がデザインしたマシンにチャンピオンを奪われるという「仲違いが自身のキャリアを振り回す」結果に陥ってしまいました。
IMG_8901
うん、せっかく優勝しても表彰台でこの表情。もう少し柔らかく、笑顔でいられたらもう一段上の結果をもたらしたかもしれません。ちなみにこの方はすごい記録を持っています。それは「デビュー戦でポールポジション獲得」歴代ではこの方を含めたったの5人しかいません。そのうちの一人には③の息子がいます。

Q⑦
IMG_8907
ヒント:どアップ!そしていい笑顔!後ろにチラッと名前が見えちゃっているのはご愛嬌!今ホンダを応援するファンの方々、この方を知らないとなれば怒られちゃいますぞ!少数精鋭のスウェーデン出身で優勝こそないものの、第二期ホンダエンジンを初めてドライブした方です。F1デビューは一応1980年です。一応なんて言い方をしたのは、当時所属したチームがまるで戦闘力が無く、予選すら通過できないという苦い経験をしたためです。初めて予選を通過して決勝レースを戦ったのは83年にホンダエンジンを積むスピリットによるスポット参戦でした。予選14番手、決勝は6周目リタイヤでした。せっかくホンダの復帰に協力したのに、翌84年はシートを失い、84年はまたもティレルからスポット参戦。しかしそのティレルは「水タンク事件」により出場停止。セナに代わってトールマンの代走から一気にシート獲得に向かったものの、そのトールマンも85年開幕戦に出走できないという不遇なキャリア序盤を過ごしています。そんなツイていない彼にチャンスが訪れます。Q①を解雇したことで空きシートができたフェラーリにうまく移籍を果たし、2位表彰台獲得に至りました。その後87年にマクラーレンへ移籍。マクラーレンにホンダが搭載されることが決まってもこの方は選定されず88年はリジェへの移籍を強いられ、なかなか旧友ホンダに再び乗ることはなく下位チームをさまようこととなりました。
IMG_8910
これは87年の日本GP。予選10番手から3位表彰台に立つも、2位には以前代走を任され、翌年にシートを奪う形となった方が並んでいます。どことなく浮かぬ顔。

Q⑧
IMG_8904
ヒント:マフィアみたいな風貌のおじさんがこちらに向かって来ています。出題しているのがバレたか(笑)この方は見るからにドライバーではありませんが、すごーく力のある方です。力といっても腕力ではなく権力の方です。当時のFIA(国際自動車連盟)兼FISA(国際自動車スポーツ連盟)の会長です。フランス軍を経て、モータージャーナリストに転身、1950年にFFSA(フランス自動車スポーツ連盟)を立ち上げています。そこから徐々に昇格を果たし、1979年にFISAを設立、F1を牛耳る立場になりました。この頃のF1は技術向上に合わせて事故も問題視された時代です。グラウンドエフェクトカー禁止をめぐり、FOCA(F1製造者協会)と対立して一時期は「F1が分裂するのではないか」と騒動となりました。以降グラウンドエフェクトカー禁止、クラッシュテストの導入、ターボエンジン禁止といった安全対策を段階的に取り入れましたが、91年のFISA会長選挙、93年のFIA会長選挙でマックス・モズレーに敗れ退任しています。セナに対して「危険ドライバー」とみなし、スーパーライセンス剥奪する騒動にも発展しました。

Q⑨
IMG_8899
ヒント:ん、この顔はもしかしたら、、いやmiyabikunそんな簡単な問題を出すだろうか。その通りです。パッと見は似ていますが、おそらく一瞬よぎった方ではありません。
IMG_8908
横から見てみます。違うでしょう。共通点もありますが、別のドライバーです。にしても、こちらもなかなかなイケメンです。今のドライバーがそうじゃないとは言いませんが、ふた昔前くらいのドライバーは結構イケメンが多くいました。この方はイタリアの貴族の子孫で育ちもよろしゅうございます。1979年にデビューし、80年から名門のロータスに移籍、チームメイトはチャンピオン経験者のM・アンドレッティという中、2年目にして2位表彰台をはじめ多く入賞を獲得して打ち負かしたことがあります(チャンピオン経験者を負かす若手、最近もどこかで聞いたことがあるな)翌81年、82年そして84年はマンセルをチームメイトにポイント上で勝り、将来を期待されるドライバーを続けます。しかし85年から加入した若手のセナに対しては速さにおいてやや劣る面がみられ、不遇に感じたこの方はチームを去り、86年からブラバムに乗る選択をします。ところがこの年にQ⑤の設計したマシンは追求し過ぎたが故の安定感に不安のあるマシンであり、シーズン中に行われたポールリカールでの合同テスト中に発生したクラッシュが引き金となり命を落としました。もしこの事故がなければ、もう数年前から日本でF1のテレビ放送が始まっていたら「音速の貴公子」という愛称はこの方が先に呼ばれていたかもしれません。ポールリカールでのフランスGPが行われる度にこの方のことが頭をよぎります。

Q⑩
IMG_8911
ヒント:最終問題は日本人枠です。この時代の日本人ドライバーといえばあの方とあの方の2人ですから、違いますね。メガネのフレームの形や大きさが「時代」を感じさせます。高専を卒業後に某自動車メーカーに就職。Q⑦の方がドライブするマシンからF1に関する仕事に従事し、各サプライヤーに対して技術的支援を行いながら86年にコンストラクターズチャンピオン獲得に一役買いました。またQ⑤のデザインしたマシンを含め87年から91年までの5年連続となるドライバーズチャンピオンにも貢献しています。90年には部署異動がありF1から一時期離れたこともありますが、マクラーレンに引き抜かれ「メーカーの人間ではなく、一技術者」として以降フェラーリやザウバーなどのチームを渡り歩いています。日本の方ですから、これ以上のヒントは必要無いでしょう。顔で覚えている方がほとんどだと思いますが、お名前を思い出してみて下さい。何でしたっけ、新井?長谷川、、中本、いや山本、、あっ桜井か?!(笑)


今回はドライバーを多めに選び、一人一人のヒントを厚めに書いてきました。ヒントもなかなか難しいものです。答えをポロって書いちゃいそうだし、出題者のmiyabikunは当然答えを知った上で書いているから難無くとも、突然ご覧になる皆さんは急に見せられてパッと思い出せないこともある。結構頭を捻って書いたつもりです。あと今回の出題はそれぞれが何らかの関係で繋がっているのも面白いです。同じ時代を戦ってきたわけだから当然ちゃ当然ですが(笑)
IMG_8912
じっくり思い出して下さい。時間はたっぷりあります。2人で考えてくれても結構ですし、いくつかの候補をもって答え合わせに臨んで頂いても構いません。まだ第2戦までは時間はありますから。この下に答えがあります。準備が整った方からどうぞ!


 A①:ルネ・アルヌー
 A②:ティエリー・ブーツェン
 A③:ジル・ヴィルヌーブ
 A④:アラン・ジョーンズ
 A⑤:ゴードン・マーレー
 A⑥:カルロス・ロイテマン
 A⑦:ステファン・ヨハンソン
 A⑧:ジャン・マリー・バレストル
 A⑨:エリオ・デ・アンジェリス
 A⑩:後藤治

いかがでしたでしょうか。超有名ではないけど、全く聞いたことがないという方でもなかったでしょう。80年代ともなると、若いF1ファンの方には厳しかったかもしれません。miyabikunもこれ以上コアな人から選ぼうとするとヒントすら怪しくなってきますのでちょうどいい具合で。
次なる出題は70年代か。チャンピオンばかりでは簡単過ぎるし、miyabikunもちょっと予習や準備が必要だなぁ。たぶんやります。やらなかったら挫けたと思って下さい(笑)あ、あとさらに先に新たなクイズ企画も構想にありますので、またそれはいつか出題しようと思います。
IMG_8905
「答えてくれた?!6月にカナダで待ってるよ!」

にほんブログ村 車ブログ F1へ
にほんブログ村
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

本当はコレを年末あたりにサクッと差し込みたかったんです。ちょっぴり久し振りとなる「コレだれGP in the 1990s」です。早いもので今から20〜30年前の話。つい最近、ってのはウソだけど数字で示すと「もうそんなに昔の話なのか」とビックリしますよね。この頃のF1は今とは違う盛り上がりをみせていました。濃密なこの時代を絞り込むのもなかなか酷な話ですが、簡単過ぎず難し過ぎずの厳選した10問になります。

Q①
IMG_7907
ヒント:この2人のうち、今回の出題は左側の方です。右側の方は、、皆さんご存知ですよね。残念でしたー、miyabikunそんな簡単な問題を出しませーん。見た目からしてドライバーでないのは一目瞭然です。チームは絞り込めると思いますので、チームのどんな関係者かということになりますね。
この方、元々はジャーナリストの出です。わかり易い例えをするならば、昨年亡くなった今宮純あたりのイメージになるでしょうか。そこからあるドイツの自動車メーカーに引き抜きで入社し、モータースポーツを直に担当することとなりました。1995年にそのメーカーがF1の名門チームにエンジンを供給するようになると、メーカーの責任者となり、チームの首脳陣の一人として、このように毎戦カメラで捉えられるようになりました。近年はサプライヤーからワークスとして参戦する某チーム。ワークスになってからも引き続き重役を任せられていますが、一時期のチャンピオン争いをしていた頃とは程遠く、2012年シーズンにトト・ヴォルフに椅子を預ける形でF1から退きました。もうちょこっと辛抱できたら、世界は変わっていたことでしょう。

Q②
IMG_7908
ヒント:日本人と思しきコースマーシャルの後ろでちょうど右手を振り歓声に応えるシーンのため、顔が少し見辛い画像でイジワルですね。すみません。最終戦のリタイヤ直後の画像でいわゆる「F1で目にする最後の姿」ということになります。でも心配はご無用、立派に存命して今でも競技者として活躍する方です。
イタリア人の彼はとても複雑で多彩な経歴の持ち主です。90年代初期は国際F3000で名を馳せ、1991年から94年までの4シーズンに渡りF1をドライブしています。しかしフル参戦に至らず、下位チームということもあって成績はイマイチで一度F1から離れ、舞台をCART(現在でいうインディカー)に活路を見出し渡米しました。そこで2年連続のチャンピオンを果たし、1999年に5年振りに再びF1のシートを得ることに成功しました。画像にある赤の「ウィンフィールド」カラーのチームは歴代でそこのチャンピオンと関わりがありますよね。ところが二度目の期待も虚しく、一度も入賞すら挙げることなく、たった一年でF1を降りる羽目となってしまいました。晩年は再び慣れ親しんだCARTに籍を移すも、2001年にドイツで行われたレースでクラッシュし両足を切断。モータースポーツ人生に幕を下ろしました。ただこの方は根っからのレーサー、ファイターなのでしょう。ステアリングを置いた後「腕を原動力」とするハンドサイクル競技を始め、2012年のロンドンパラリンピック、2016年のリオパラリンピックで金メダルを獲得するなど、今でも「車輪を使った競技」で大活躍しています。昨年6月のレース中にトラックと衝突して、一時期重体との報道もありますが、また奇跡の復活を果たしてくれることを祈っています。

Q③
IMG_7902
ヒント:ん、味気ないレーシングスーツでまた2人。今度はどっち?!今回に限り右と左の両方、それもフルネームで答えて頂きます。なぜなら、2人はセットの方が面白いから(笑)
まず左の方からヒントです。右の方よりも5歳歳上でF1は1984年からこの90年代中盤まで参戦するベテランドライバーです。序盤のキャリアは年に2、3回入賞するのが精一杯の地味な位置をさまようドライバーではありますが、90年代に入るとようやく走りが報われ、表彰台には9回登壇し、F1引退後は耐久レースにシフトしました。今でもある形でF1に関わり、顔を目にする機会が多くあります。
続いて右側の方は左の方と同じイギリス出身のドライバーでデビューイヤーの91年に画像にもある実況アナウンサーや我々視聴者にとっても間際らしい「奇跡のコラボレーション」を果たしました。こちらは表彰台は3回に止まっています。この方も②の方と同様にF1を降りた後、アメリカのCARTシリーズに参戦しています。

Q④
IMG_7914
ヒント:前面に見覚えのあるダボダボシャツを羽織るお兄ちゃんが見えていますが、今回の出題はその左肩奥に見える青いシャツの方が出題対象です。こちらもイジワル画像ですが、前に映るドライバーVといつも一緒にいる方を思い出して頂ければ、察しがつくと思います。
この方は元ドライバーでなく、前に映るドライバーVさんのマネージャー。経歴を調べてみるとビックリ。実はこの方、元々はドライバーVの学校の先生をしていた方なんです。教員を辞めた後、F1のメディアに関するビジネスを行なった際、日本のF3で活躍するVと再開を果たし、以降マネージャーという関係で帯同することとなりました。VがアメリカのCARTでチャンピオンを獲得すると、Vの父も活躍したF1へ導くことに成功し、わずか参戦2年目にF1でもチャンピオンを獲得する立役者となりました。勢いづくこの方はVのために名門ティレルを買収、チーム代表となって関係を続けますが、ビッグスポンサーの潤沢な資金をもってしても再びVをチャンピオンに導くことができず、VがF1を離れた後にマネージャー業をたたんでいます。

Q⑤
IMG_7910
ヒント:ヘルメットのバイザーに水色の十字。F1でよく見かける国のドライバーのようです。90年代のマールボロ系といえば、あの方を想像しますが、特徴的なヘルメットデザインとバイザーの奥の目が違いそうですね。よってその方ではありません。しかし、この国のF1ドライバーって有名な割に人数にすると多くありませんので、ある程度絞り込みは可能かと思います。ちなみにこの時代の候補といえば3人しかいません。名前にしたら2つしかない?!(笑)
IMG_7917
F1デビューはその3人のうち最も古い1989年です。ただチームに恵まれなかったこともあり、キャリア序盤は予選落ちを数回していたため、実質活躍できたのは1991年からとなります。その91年第3戦サンマリノGPはこの国のドライバー2人目となる表彰台を獲得。続く後輩に対して先輩風を吹かせられればよかったのですが、表彰台登壇はこの一度キリとなり、94年終盤に新たに加わった後輩と入れ替わる形でF1を降りています。名前が実に特徴的で、顔よりも名前の音で記憶されている方も多いと思います。テレビ中継や書籍で採用されていたのは実は愛称で、本名は結構長い。少し前にドライブした母国の先輩からのアドバイスで愛称を採用していたようです。よってこちらはよく聞く愛称の回答を可とします(miyabikunも本名は頭に入っていません)

Q⑥
IMG_7916
ヒント:シャンパンファイトの後ろに観衆がいる、ということはこの方はあそこで表彰台に立ったということですね。なかなかのヒントです。フランス人ドライバーとして母国のビッグメーカーを盾に長きに渡りF1を支えたドライバーです。F1デビューは1994年に母国のコンストラクターであるリジェからでした。その年の第9戦ドイツGPで2位表彰台を早々と獲得し「ポストプロスト」を期待されてはいましたが、その後しばらく表彰台からは遠退き、入賞がやっとのレースが続きました。キャリア3年目でリジェがプロストの手に渡った際も引き続き起用されるも、1997年第7戦カナダGPで大クラッシュを起こし、7戦欠場する出来事もありました。97年シーズンは中野信治のチームメイトを経験したり、晩年はB・A・Rでホンダエンジン、トヨタのレギュラードライバーを担うなど、日本とも縁の深いドライバーの一人です。
IMG_7909
「ボスが偉大だと、やり辛いー!」

Q⑦
FullSizeRender
ヒント:日本人ドライバーです。この顔に見覚えありますか?!すぐに思い出せない方は名前を聞けばああと納得されるでしょうし、ご存知の方はもしかしたらニヤリと笑みを浮かべていることと思います。顔や戦績よりも珍しい名前とレース中の出来事などのインパクトが強いドライバーですね。今シーズンからドライブすることが決定した角田裕毅くんをはじめ、歴代の日本人ドライバーは「自動車メーカーの育成や結び付き」でシートを獲得する者が多い中、この方は「自身でスポンサー(持参金)を用意してチームに売り込みを図る」という独自の方法を採り、シート獲得したことで話題となりました。
若かりし頃はアルバイトをしながら参戦費用を貯め、単身でイギリスに渡ってからも資金調達をコツコツ集め、上位カテゴリーの門を叩いていきます。以降も日本の英会話スクールを味方につけ一つずつステップアップし、1994年第15戦日本GPでF1デビュー。翌95年は日本企業であるフットワークからフル参戦を果たしています。F1では「マシンの消火にあたる際に後から駆け付けたメディカルカーと接触して足を負傷する」という伝説を国際カメラで捉えられるなどで一躍有名となってしまいましたが、自らの売り込みや交渉力、行動力でF1シートを勝ち得たというのは立派なものだと思っています。また当時や以降のF1中継であまり彼のことを触れたりクローズアップされてこなかったのが不思議でありもったいないことだと個人的に感じます。

Q⑧
FullSizeRender
ヒント:今回唯一の女性ノミネートとなります。F1ドライバーでないのは一目瞭然ですが「元関係者」であることに間違いありませんね。
あるドライバーの夫人として、90年代後半から2000年代序盤にかけて、毎レース1回は必ずと言っていいほどカメラでお目にかかれた方です。この方の存在はドライバーにとってとても大きなものでしたよね。ドライバーが90年代中盤に大きな事故に遭った際、献身的に看病してくれたことで愛を育み、1998年に結婚。以降腕を組みガレージで見守り、ドライバーは見事チャンピオンを獲得しました。ドライバーの才能もさることながら、マシンをはじめタイヤにエンジン、ライバルとの勢力図が一変したことでなし得たチャンピオンでしたが、もしかしたらこの方の存在がチャンピオン獲得に一番の原動力になったのかもしれません。詳しくは分かりませんが、残念ながら今はそのドライバーとは離婚された模様。

Q⑨
IMG_7913
ヒント:1990年代から2000年代のF1の歴史をみるにあたって、大なり大なりこの方の前を必ず通過する必要があります。F1屈指の手腕、そしてお騒がせ者の両面を持つこの方です。
元々はF1はもとより、モータースポーツとは関係の無いアパレル業界の人間でした。しかしそのアパレルメーカーがF1のビッグスポンサー、そしてチーム経営を始めると、1988年からこの方もF1の世界に関与するようになります。F1界の著名デザイナーの獲得、さらには有力な若手シューマッハの獲得にも成功すると、ドライバーズとコンストラクターズのダブルチャンピオンを獲得するまでに仕立て上げて名を馳せました。シューマッハ移籍後は一度低迷しますが、2000年代に入るとスペイン人の若手アロンソを見出し、再びダブルチャンピオンを獲得に至りました。チーム経営や統率力に長けた彼ではありましたが、それを欲しがるばかりスポーツでご法度の「禁じ手」を計画。一時期はF1界から永久追放される事件を起こしてしまいました。

Q⑩
IMG_7919
ヒント:ベネトンと思しき水色のガレージでモニターを見守る赤白黒のスーツ。今でも変わらぬ面持ちの彼は現在のF1中継でお馴染みの声と顔ですね。日本を代表するまん丸なタイヤです。いやいやタイヤ技術者です。ひとえにタイヤ技術者というだけでなく、時代によって所属や役割に違いがあります。90年代終盤から2000年代は「メーカーの開発者、総指揮」という立場でF1に関与。長らく続いたアメリカのグッドイヤーの勢力を急速に上回り、ナンバーワンタイヤを確立しました。新勢力として参入したフランスのミシュランの後塵を拝する時期も経験しましたが、長時間に渡りタイヤに負荷をかけるとされたインディアナポリスのバンク走行においても不安要素なく走り切ったのは日本企業として心強い誇りとなりました。2012年でタイヤメーカーを定年退職してからは「名門チームの足回り担当」として他メーカーのタイヤとマシンの相性をみる役を経験しています。テレビ解説ではソフトな語り口で専門であるタイヤや路面状況などをわかりやすく説明してくれていますが、そのソフトな口調の奥に「本当は言いたくて我慢している様子」をちらほら感じます。タイヤはソフトばかりでなく時にはズバッとハードにキメてくれてもいいと思うのですが、公衆の面前で本音はなかなか難しいでしょうか。


以上、今回はドライバーだけでなく関係者色強めの10問(10.5問)を出題してみました。超簡単にはしていないけど、超難しいようにもしないようにしました。みんな大好き90年代のF1ですから、大丈夫ですよね。
IMG_7920
「ん?うーん。。」
よく見て思い出して下さい(あなたは今回出題されている側なんですが)
いきますよ?!


 A①:ノルベルト・ハウグ
 A②:アレッサンドロ・ザナルディ
 A③:マーティン・ブランドル(左)
      マーク・ブランデル(右)
 A④:クレイグ・ポロック
 A⑤:J・J・レート
 A⑥:オリビエ・パニス
 A⑦:井上隆智穂
 A⑧:イリヤ・ハッキネン(当時)
 A⑨:フラビオ・ブリアトーレ
 A⑩:浜島裕英

IMG_7905
「あらボク忘れられている。。」
あと2、3年いたら、きっと忘れられない立ち位置でした。でも、この方があの机を叩いたら破壊しちゃいそうだ(笑)

にほんブログ村 車ブログ F1へ
にほんブログ村
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

一週間の空きがあると気持ちも楽ですね。我々ファンがそう思うんだから、ドライバーや関係者は移動もあるわけだしもっとそう思っているはずです。このくらいのペースがちょうどいいですよ。つい先日「コレだれGP」を開催したばかりですが、少し時間があるため今回はさらに10年前となる2000年代のコレだれをやってみたいと思います。今週末からまた鬼のような三週連続開催が待っている。。こんな悠長なことしていられなくなりますね。

Q①
IMG_7196
ヒント:堂々たる風格。こう見えてこの年のF1新人です。最近の新人とは全く違う、妙な落ち着きと内に秘めたる闘志も感じられますね。この年は開幕戦で4人の新人がいましたが、25歳のこの方、ただ単なる新人ではなく、アメリカのトップカテゴリーでしっかりチャンピオンを獲得してからF1の門を叩いています。他カテゴリーや下位カテゴリーをよく知らないmiyabikunもこの方は参戦前からよく知っていて、まさかF1に来ると思いませんでした。マンセルや佐藤琢磨などとは逆のキャリアです。
IMG_7199
F1デビューは名門ウィリアムズ。初年の序盤はリタイヤも後半戦のイタリアGPで優勝を挙げ早々とF1を攻略。チャンピオン争いに名乗りを上げてきました。ただF1の水が合わなかったのか6年目の途中でF1から離れ、再びアメリカに戦いの舞台を戻してしまいました。F1以外で今でも活躍する「猛獣」です。

Q②
IMG_7179
ヒント:表彰台かな?!めちゃくちゃ嬉しそう!隣ではM・シューマッハから拍手で讃えられています。レーシングスーツから察するにジョーダンあたりでしょうか。この後はいよいよシャンパンファイトか
IMG_7193
って、おい!ファイトせずシューマッハ帰っとるやないか!!1人でシャンパン振って可哀想に。。このドライバーはF1でも少数派のポルトガル人で唯一となる登壇者です。堅実な速さで完走を続け、初入場が初表彰台獲得となりました。どうして初入賞で一気に表彰台に登壇することになったのか、レース自体が異例の事態となり「番狂わせ」が起きたためです。番狂わせでも何でも、表彰台に乗れたことは素晴らしいこと。

Q③
IMG_7181
ヒント:今回は2000年代を代表するF1関連のものが対象となりますが、この一枚目はデビューイヤーの1999年のものです。この方はブラジル出身で、ある新興チームからF1参戦となりますが、チームメイトと比べると入賞は3回とやや物足りない内容でした。この方で一番印象に残っているのはこのシーンという方が多いかもしれません。
IMG_7180
あるストレートでマシンが3台横並びになっています。向かって左側が白と黒のマクラーレン、右側はフェラーリで今回の対象は真ん中の白いマシンです。同一周回ではなく、両側2台からみたら周回遅れになる瞬間なのですが、マシンの両側からほぼ同時にパッシングされています。周回遅れにされるのは屈辱的なことではあるものの、両サイドは目下チャンピオン争いの真っ最中。F1史を振り返ると必ず通る名シーンの一つです。ある意味有名人。

Q④
IMG_7190
ヒント:胸元にチラッと見えるエンブレムからもフェラーリの関係者であることがわかります。見た目あまり若くなさそうですが、スタッフか何かでしょうか。この方はスポットながらフェラーリドライバーです。ある正ドライバーの事故により急遽2戦参戦しています。デビューは何と1993年です。下位チームで数年過ごし、レギュラードライブしたのは1999年が最後でした。ところがテストドライバーに徹して10年後にスポットであれ再びレースに出る機会が訪れると思っていなかっでしょう。サーキット下見はしっかりと、でも目標は完走とやや低めか。

Q⑤
IMG_7183
ヒント:出題は写真右端の初老過ぎの男性。拳を振り上げ前方のモニターに向かって大興奮しています。ドライバーの親でしょうか。その方の後ろは年齢的に弟かな。昔から夫人や恋人をガレージに呼ぶドライバーは多く見かけましたが、2000年代に入ると親や兄弟が息子の勇姿を見守る姿を多く見かけるようになりました。miyabikunは小学生の頃、運動会で親が来た日に限ってリレー競技のバトンを落とすという大恥をかいた過去があるため、それ以降親が見に来るのを拒んでいましたが、皆さんはいかがでしたか?!またこの親子を見るたびに思うのですが、毎戦帯同していて、この方々は仕事されていないのでしょうか。親や兄弟を養うくらい息子が稼いでいるから大丈夫なのかな。

Q⑥
IMG_7195
ヒント:シャツの胸元にあるメーカーのロゴマークがしっかり入っているので、かなり絞り込めると思います。風貌や年齢からしてもドライバーではないことは明らかですね。この方は機械系の大学でエンジンを専門とした研究を経て、卒業後は某自動車メーカーでエンジン開発に従事。2000年からメーカー関係者の立場からF1と関係を持った方です。実務をしながら大学で研究を重ね、博士号を取得していることもあって「博士」という愛称で呼ばれていましたね。このメーカーのエンジンはとにかく「Power」がウリ。

Q⑦
IMG_7194
ヒント:優しそうなおじさんですね。あまり見慣れないレーシングスーツを着ていますが、当然F1ドライバーでもどこかのチーム関係者でもないけど、F1には欠かすことができない部品メーカーの方です。久し振りにF1の舞台に復帰し、少しずつ採用チームが増えて安定した優勝を重ねられるようになった矢先、Q②のレースにも関係する「大事件」が勃発。チャンピオンを無事に獲得しつつもその翌年を最後に残念ながらF1から撤退する形となりました。今現在、この方が今でも関わっているのか定かではありませんが、このメーカーの復活を望む声をたまに耳にします。復帰はもうないでしょうね。

Q⑧
IMG_7191
ヒント:あるシーズン開幕戦の新人記念撮影のひとコマ。1人見慣れた方も写っていますが、今回の対象は向かって左側、ホンダのロゴを付けた方です。よく見えないかもしれませんが、日本人です。この時代の日本人F1ドライバーといえば、数人に絞られますね。日本のチームに日本のチーム代表、そしてエンジンもチームメイトも日本人という「日本尽くし」の中でF1デビューを果たしました。IMG_7192
日本国内だけでなく、海外でもレース経験を経ていましたが、チャンピオンを獲得した経験はなく不安視される声があったものの、チーム代表は起用を決断。しかし不安は的中し、デビュー4戦目のスタート直後にライバルを巻き込む大クラッシュを引き起こしてしまいます。第5戦も現地入りはしますが急遽ドライバーをスイッチ、さらにはシーズン中にスーパーライセンスを剥奪されるという結果を招いてしまいました。

Q⑨
IMG_7188
ヒント:表彰台のテッペンでシャンパンファイト前に3位の方と揃ってラッパ飲み。3位の方とは同じ国で、どうやらこの国の方はとにかくまずは黙って酒、といったところでしょうか。デビューがワークスチーム、そして少数ながら数々の名ドライバーを輩出した国出身のドライバーということで、大きな期待が寄せられていましたが、優勝は経験しつつも、このレースが唯一の優勝というのも意外な戦績でした。
IMG_7189
チームメイトに恵まれなかったこともあって、イマイチ光る成績が残せず、晩年は下位チームに数年食らい付き、静かにF1から離れていきました。近年日本でもレース経験があるため、ご存知の方やファンも多いと思います。

Q⑩
IMG_7184
ヒント:この感じからして誰の関係者かは一目瞭然だと思います。Q⑤の方と同様に、同じ頃対比するようによく映像に捉えられていましたよね。現在も関係者はF1の第一線で活躍されていますが、ある時期から親子立ちし、この方の露出はかなり少なくなりました。息子をあそこまで育て上げるまで大変な苦労をされたと聞いています。ただ今はお父さんがいなくても大変立派に育ってF1界を支え、代表するドライバーとなりました。

以上、厳選に厳選を重ねた10人です。本当はまだまだ取り上げたい人物は山ほどいたのですが、今回も簡単過ぎずマニアック過ぎずで選びました。まだまだ最近の話ですから、そんなに難しくないでしょう?!答え合わせに入ります。


 A①:ファン・パブロ・モントーヤ
 A②:ティアゴ・モンテイロ
 A③:リカルド・ゾンタ
 A④:ルカ・バドエル
 A⑤:ルイス・アントニオ・マッサ
 A⑥:マリオ・タイセン
 A⑦:ピエール・デュパスキエ
 A⑧:井出有治
 A⑨:ヘイキ・コバライネン
 A⑩:アンソニー・ハミルトン

今回はドライバー以外から4問の出題でした。こうしてみると、ドライバー以外にも時代を象徴する方って沢山いますよね。
最後にもう1問。この中でマッサはどれ?!
image
正解は真ん中と右(笑)

にほんブログ村 車ブログ F1へ
にほんブログ村
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ