先日モナコGPの行われた翌日の5/24に前FIA会長を務めたマックス・モズレーが亡くなりました。ちょうどmiyabikunがF1を観だした頃に前々会長のジャン・マリー・バレストルから引き継ぐ形となり、その後のF1の方向性を変えたり、ドライバーに厳しく批判するなどmiyabikun個人的にはあまりいいイメージがなく、怖い方ということが先行してしまいますが、近代F1の礎を整えた功労者であるともいえます。若いF1ファンはご存知でない方も多いかと思いますので、簡単ではありますが略歴を振り返り、追悼したいと思います。
マックス・モズレー
1940年4月13日生まれ(イギリス)
オックスフォード大学にて物理学を専攻
ロンドン法学院にて弁護士の資格取得
1969年にマーチ設立
1978年にFOCAの法律アドバイザー就任
1991年にFISA会長就任
1993年FISA吸収によりFIA会長に就任
マックス・モズレー
1940年4月13日生まれ(イギリス)
オックスフォード大学にて物理学を専攻
ロンドン法学院にて弁護士の資格取得
1969年にマーチ設立
1978年にFOCAの法律アドバイザー就任
1991年にFISA会長就任
1993年FISA吸収によりFIA会長に就任
2009年にFIA会長を満了
2021年5月24日没(81歳)
イギリス出身で元は大学で物理学を専攻していたものの、卒業後に法曹の世界を目指し、弁護士の資格を取得しています。本職は弁護士として手腕を振るいますが、その傍ら趣味でモータースポーツも勤しみ、ドライバーとしてF2に参戦しています。それをきっかけにドライバーを引退後「マーチ」(晩年は日本のレイトンハウス)というコンストラクターを立ち上げ、1970年シーズンからF1にシャシー提供という形で参戦を果たしました。このマーチという名は創始者4人の頭文字、マックス・モズレーのM、アラン・リースのAとR、グラハム・コーカーのC、そしてロビン・ハードのHを組み合わせた「MARCH」からきています。
1970年は前年にチャンピオンを獲得したティレルへシャーシを提供、スチュワートやエイモン、また成長著しいセベールやピーターソンなどがドライブし、スチュワートによるポールポジションや優勝を早々に経験します。以降もピーターソンやハントなどが活躍するシーズンはあるものの、成績はトップチームには程遠く、モズレー自身は1977年にチームを離れ、チーム自身は晩年のカペリによる奮闘の後、レイトンハウスの撤退により資金難のため1992年シーズンをもって消滅しています。
モズレーは法律の専門家である知識を活かし、マーチから離れた翌年の1978年にブラバムのチーム代表であるバーニー・エクレストンが会長を務めるFOCA(F1コンストラクター協会)にアドバイザーとなります。そこでFIA(国際自動車連盟)の下部組織にあたるFISA(国際自動車スポーツ連盟)と「グラウンドエフェクトカーの規制」により対立した際は調停役を務め、1981年に「コンコルド協定」を結ぶことに成功しています。
1991年にFISA会長を務めるジャン・マリー・バレストル相手に選挙で勝ち会長職に、さらに1993年にFIA会長に就任するとFISAを吸収します。FIAでは2009年までの4期16年歴任、様々な安全対策やコスト削減対策を提唱することとなります。その時代の代表的なレギュレーション変更を下に並べてみます。
《就任中の代表的なマシンレギュレーション変更》
1994年シーズンから
・電子制御デバイスの各種搭載禁止
アクティブサスペンション
トラクションコントロールシステム(TCS)
アンチロックブレーキシステム(ABS)
四輪操舵システム(4WS)など
2021年5月24日没(81歳)
イギリス出身で元は大学で物理学を専攻していたものの、卒業後に法曹の世界を目指し、弁護士の資格を取得しています。本職は弁護士として手腕を振るいますが、その傍ら趣味でモータースポーツも勤しみ、ドライバーとしてF2に参戦しています。それをきっかけにドライバーを引退後「マーチ」(晩年は日本のレイトンハウス)というコンストラクターを立ち上げ、1970年シーズンからF1にシャシー提供という形で参戦を果たしました。このマーチという名は創始者4人の頭文字、マックス・モズレーのM、アラン・リースのAとR、グラハム・コーカーのC、そしてロビン・ハードのHを組み合わせた「MARCH」からきています。
1970年は前年にチャンピオンを獲得したティレルへシャーシを提供、スチュワートやエイモン、また成長著しいセベールやピーターソンなどがドライブし、スチュワートによるポールポジションや優勝を早々に経験します。以降もピーターソンやハントなどが活躍するシーズンはあるものの、成績はトップチームには程遠く、モズレー自身は1977年にチームを離れ、チーム自身は晩年のカペリによる奮闘の後、レイトンハウスの撤退により資金難のため1992年シーズンをもって消滅しています。
モズレーは法律の専門家である知識を活かし、マーチから離れた翌年の1978年にブラバムのチーム代表であるバーニー・エクレストンが会長を務めるFOCA(F1コンストラクター協会)にアドバイザーとなります。そこでFIA(国際自動車連盟)の下部組織にあたるFISA(国際自動車スポーツ連盟)と「グラウンドエフェクトカーの規制」により対立した際は調停役を務め、1981年に「コンコルド協定」を結ぶことに成功しています。
1991年にFISA会長を務めるジャン・マリー・バレストル相手に選挙で勝ち会長職に、さらに1993年にFIA会長に就任するとFISAを吸収します。FIAでは2009年までの4期16年歴任、様々な安全対策やコスト削減対策を提唱することとなります。その時代の代表的なレギュレーション変更を下に並べてみます。
《就任中の代表的なマシンレギュレーション変更》
1994年シーズンから
・電子制御デバイスの各種搭載禁止
アクティブサスペンション
トラクションコントロールシステム(TCS)
アンチロックブレーキシステム(ABS)
四輪操舵システム(4WS)など
・決勝レース中の再給油復活
1994年シーズン途中から
・フロアパネルに木製スキッドブロックの取付
・エンジンカバー後部にラム圧低下の開口設置
1995年から
・エンジン排気量を3,000ccに統一
・サイドクラッシャブルストラクチャー試験を導入
1996年から
・コクピット開口拡大とプロテクター装着義務化
1997年から
・後部クラッシャブルストラクチャー試験を導入
1998年から
・グループド(溝付き)タイヤ導入
・マシン全幅を1,800mm以下に縮小
1999年から
・外部からの救出が容易なセーフティシート導入
・ホイール脱落防止装置の義務化
2000年から
・クラッシュテストの衝突速度の引き上げ
2002年から
・電子制御のパワーステアリング禁止
2003年から
・予選と決勝で使用できるエンジンは1基
・予選終了から決勝前のマシン改良禁止
・頭部前傾抑制装置(HANS)の装着義務化
2004年から
・1レースで使用できるエンジンは1基
・ローンチコントロールシステムの禁止
2005年から
・2レースで使用できるエンジンは1基
2006年から
・エンジンをV型8気筒2,400ccに統一
・リヤのクラッシュテストの衝突速度の引き上げ
2007年から
・エンジン回転数は19,000rpm以下に制限
2008年から
・電子制御ユニット(ECU)の共通化
・2001年に復活したトラコン(TCS)の再禁止
・ギヤボックスは4レース1基
2009年から
・エンジン回転数は18,000rpm以下に制限
・シーズンのエンジン基数の制限
・グループドタイヤ廃止、スリックタイヤ復活
・運動エネルギー回生システム(KERS)導入
・ウィングをはじめとしたダウンフォース低下措置
全てがモズレーの指示や思想によるものではありませんが、モズレー政権の16年間の代表的なマシンレギュレーションをみても、私達F1ファンの記憶にあるものばかりで、段階的な速度低下や安全対策強化、そしてエンジン基数制限などのコスト削減に奔走していたことがうかがえます。中には「せっかく速くなったマシンを遅くして」とか「基数制限やペナルティが煩わしい」と思える賛否両論も多くありますが、F1はこれら「統一された厳しいレギュレーションの中で競う」のが基本であり、どうしても技術向上の足かせとなったり、ドライバースキルの差が出し難い環境でバトルしていかなければならない点についてはこれから先のF1にも続くことです。
1994年シーズン途中から
・フロアパネルに木製スキッドブロックの取付
・エンジンカバー後部にラム圧低下の開口設置
1995年から
・エンジン排気量を3,000ccに統一
・サイドクラッシャブルストラクチャー試験を導入
1996年から
・コクピット開口拡大とプロテクター装着義務化
1997年から
・後部クラッシャブルストラクチャー試験を導入
1998年から
・グループド(溝付き)タイヤ導入
・マシン全幅を1,800mm以下に縮小
1999年から
・外部からの救出が容易なセーフティシート導入
・ホイール脱落防止装置の義務化
2000年から
・クラッシュテストの衝突速度の引き上げ
2002年から
・電子制御のパワーステアリング禁止
2003年から
・予選と決勝で使用できるエンジンは1基
・予選終了から決勝前のマシン改良禁止
・頭部前傾抑制装置(HANS)の装着義務化
2004年から
・1レースで使用できるエンジンは1基
・ローンチコントロールシステムの禁止
2005年から
・2レースで使用できるエンジンは1基
2006年から
・エンジンをV型8気筒2,400ccに統一
・リヤのクラッシュテストの衝突速度の引き上げ
2007年から
・エンジン回転数は19,000rpm以下に制限
2008年から
・電子制御ユニット(ECU)の共通化
・2001年に復活したトラコン(TCS)の再禁止
・ギヤボックスは4レース1基
2009年から
・エンジン回転数は18,000rpm以下に制限
・シーズンのエンジン基数の制限
・グループドタイヤ廃止、スリックタイヤ復活
・運動エネルギー回生システム(KERS)導入
・ウィングをはじめとしたダウンフォース低下措置
全てがモズレーの指示や思想によるものではありませんが、モズレー政権の16年間の代表的なマシンレギュレーションをみても、私達F1ファンの記憶にあるものばかりで、段階的な速度低下や安全対策強化、そしてエンジン基数制限などのコスト削減に奔走していたことがうかがえます。中には「せっかく速くなったマシンを遅くして」とか「基数制限やペナルティが煩わしい」と思える賛否両論も多くありますが、F1はこれら「統一された厳しいレギュレーションの中で競う」のが基本であり、どうしても技術向上の足かせとなったり、ドライバースキルの差が出し難い環境でバトルしていかなければならない点についてはこれから先のF1にも続くことです。
退任前年の2008年にはココでは細かく取り扱いませんが「私的活動」が明るみとなり問題となりました。結果的にこれまでの厳格さが一気に削がれることとなり、次期FIA会長選挙に出馬せず、2009年の任期満了で会長職を降り、前フェラーリの監督であるジャン・トッドに引き継がれることとなりました。まあこの点はmiyabikunにはその癖や欲がないため、同意はしかねますが、プライベートのことで辱められるのも可哀想だし惨めだなと当時思いました。
ワークスやメーカー、ドライバーが進化してもレギュレーションによって打たれてしまう。上記の規定や改革によりいたちごっこが続いたわけですが、その中でも皆がそのレギュレーションに従い、多くの名シーンやバトル、ドラマ、そして今に続く歴史を築いてきました。16年という期間ではあるものの、モズレーがそれらの歴史を指揮していたわけです。安全対策についても、就任2年目の1994年に2人のドライバーが命を落としてしまいますが、以降就任中のF1ドライバーの死亡事故が起こることはありませんでした。もしかしたら、これらのレギュレーションや大小によらない懲罰などがなければ、もっと起きていたのかもしれないと考えると、まんざらでもなかったのかなと思います。
退任後のF1をモズレーはどう見守ってきたのでしょうか。今日までのF1の歴史に大きく関わったモズレーに心よりご冥福をお祈りします。
にほんブログ村
ワークスやメーカー、ドライバーが進化してもレギュレーションによって打たれてしまう。上記の規定や改革によりいたちごっこが続いたわけですが、その中でも皆がそのレギュレーションに従い、多くの名シーンやバトル、ドラマ、そして今に続く歴史を築いてきました。16年という期間ではあるものの、モズレーがそれらの歴史を指揮していたわけです。安全対策についても、就任2年目の1994年に2人のドライバーが命を落としてしまいますが、以降就任中のF1ドライバーの死亡事故が起こることはありませんでした。もしかしたら、これらのレギュレーションや大小によらない懲罰などがなければ、もっと起きていたのかもしれないと考えると、まんざらでもなかったのかなと思います。
退任後のF1をモズレーはどう見守ってきたのでしょうか。今日までのF1の歴史に大きく関わったモズレーに心よりご冥福をお祈りします。
にほんブログ村