F1 えきぞーすとのーと

よくあるニュースネタやこ難しいテクニカルな話ではなく、メインは予選や決勝のTV観戦したそのものを個人的観点から綴るF1ブログです。  また、懐かしのマシンやレースを振り返ったり、記録やデータからF1を分析。その他ミニカーやグッズ集めも好きなので、それらを絡めつつ広く深くアツくF1の面白さやすごさを発信し、楽しんでもらえたらいいなと思っています。

カテゴリ: この人だあれ?

前回はフーゲンホルツの略歴と手がけたサーキットについてみてきました。今回はその中でも「日本との関わり」についてクローズアップしていきます。

《鈴鹿サーキット建設計画の変遷》
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世界から一歩遅れた形となった日本も戦後は高度成長期に突入し、自動車やバイクなどの輸送機器の発達や需要も加速していきました。本田技研工業は現存する自動車メーカーの中では後釜であり、その頃はまだバイクをメインとしていました。1959年に参戦した「マン島TTレース」を皮切りに本田技研工業の創始者、本田宗一郎は「国内に本格的なサーキットを建設したい」という野望を抱くようになります。

建設地の条件には
 ・大都市から遠く離れていないこと
 ・コース設計に適した自然環境があること
 ・近隣住民との折衝が円滑に行えること

が掲げられ、いくつかの候補地が選定されました。候補に挙がったのは水戸(茨城県)、既にダートコースが設営されていた浅間(群馬県)、ライバルのヤマハも近くホンダの技術研究所も近い浜松(静岡県)、亀山とスーパーカブの生産工場を建てたばかりの鈴鹿(三重県)、そして亀山から峠を越えたお隣の土山(滋賀県)の6つでした。
そこから「亀山」「鈴鹿」「土山」の3箇所に絞られます。亀山は既に宅地化されている地区の用地取得が必要であること。土山は国道や鉄道などの交通の便に難があるため却下。そこで起伏と平地を兼ね備えつつ工場建設で地域と良好な関係を築けていたことから、鈴鹿で決定したと言われています。60年(昭和35年)1月に描かれた鈴鹿レーシングコース建設計画にはこのようなレイアウトでした。IMG_3018
鈴鹿という名は同じですが、現在の形からは想像できないレイアウトです。それもこれは現在の位置から少し離れています。
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冒頭の図の倍の縮尺にするとおさまります。今よりも東側にあたる、今でいう国道23号バイパス寄りを予定していました。浄土池を周回し、アウトバーンを思わせる上下別の長く並行したストレートで構成されています。水田のある平坦なエリアでこのような計画を立てますが、本田宗一郎から「米を粗末に扱うな」との喝が飛び、以降西側の松林を造成し、度重なる検討が行われることとなります。以下のレイアウト変遷図は資料にもなっていますが、ただそれを流用するのでは芸が無いため、最近新設サーキットが無く、せっかくあっても開催されず、不要不急で手持ち無沙汰なミヤビマン・ティルケを久々に召集し、色分けのトレースをさせてみました。細かなRなどはわからないものの、イメージくらいは伝わると思います。

① 60年8月 塩崎定夫による原案(ピンク)
② 60年8月 ヨーロッパ視察後の修正案(赤色)IMG_3017
これが現地で計画された初期のレイアウトです。先程に比べると「鈴鹿感」はありますが、今でいうセクター1に強烈なインパクトがあります。鈴鹿サーキットの一番の特徴である本線立体交差が①では3箇所もあったんです。ちょっと見てみたかった気もしますが、当然ながら全長は延びます。西側のスプーンカーブも今と異なり鋭角ですね。これだときっと「スプーン」という愛称にはならなかったでしょう。
②は塩崎定夫、飯田佳孝、小川雄一郎の3人が本場ヨーロッパのサーキット(スパ、ホッケンハイム、ニュルブルク、アッセンなど)のレイアウト、施設、舗装などを目にし、調査した結果を反映したものです。セクター1の立体交差2箇所を無くし、クジラやヘビの頭のような線形に変えています。さすがに立体交差はやり過ぎかなと気付いたのでしょうか。こちらの方が今よりもパッシングポイントが多いようにも感じます。S字やデグナー、スプーンの原型となる線形がこのあたりから浮かび上がってきました。

③ 61年1月 フーゲンホルツによる助言案(黄色)
④ 61年5月 測量土木設計図(茶色)
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次のステップは③先日示した黄色のレイアウト、フーゲンホルツの鈴鹿現地調査を経て描かれたものです。ヘヤピンが東側に倒れて見えるのは気になさらずに(笑)ヨーロッパ視察時にオランダのカーディーラーの伝で紹介されたフーゲンホルツが新サーキット建設プロジェクトを快諾、遠い日本まで足を運んで頂きました。20日間の滞在と調査により、ココでフーゲンホルツのアイデアが鈴鹿サーキットに注入されるわけです。立体交差を廃止したセクター1をメインスタンドから遠避ける改良を施しています。理由は「メインスタンドがやかましくなり場内放送が聞こえなくなる」から。確かに。。それ以外の特徴としては①②もそうでしたがスプーン立ち上がりから第1コーナーまでとても滑らかな線形をしています。現代のF1なら間違いなく「直線扱い」ですね。フーゲンホルツのアイデアは第1デグナーの入りも減速を伴い、130R付近を軸に180°点対象なレイアウトにも見えます。
④は測量時に計画されたレイアウトです。第1コーナーと第2コーナーは今と異なる180°ターンのような綺麗な弧を描き、S字から逆バンク、ダンロップまでは現在に非常に似たものとなっています。一方でデグナーは一つのコーナーとなっており、スプーンは①のような北に張り出した形状、そして130Rと最終コーナーは現在に近く半径の小さなコーナーへと変化しています。

⑤ 62年1月 塩崎定夫による最終決定(緑色)
⑥ 20年4月 各種改良後の現在(青色)IMG_3015
⑤が当時の完成形といえるレイアウトです。ここまでくるとほぼ現在⑥に近いものとなりました。第1コーナーと第2コーナーはフーゲンホルツのアイデアが採用され、立体交差も今と同様に鋭角に交差しています。ちなみにデグナーとシケインは後から追加改良されて生まれたものです。
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このような経過を経て、鈴鹿サーキットのレイアウトが完成しました。一部線形変更がありますが、結果的にフーゲンホルツのアイデアに近いものが鈴鹿サーキットを作り上げたと言っていいと思います。まだ当時の日本には馴染みのなかったサーキット舗装についても、ヨーロッパ視察時に得た情報を日本鋪道(現 NIPPO)に提供し、様々な砕石サンプルから木曽川の砕石を選び抜いて採用するなど、日本の道路技術の発展にも貢献するプロジェクトとなりました。

《ホンダとの関わり》
鈴鹿サーキットの変遷が長くなりましたが、今回の主役も本当はフーゲンホルツです。1961年にホンダと出会い、来日までして鈴鹿サーキットの建設に携わったフーゲンホルツはその後も日本との関わりが続きます。64年にF1参戦を控えたホンダに対して、研究目的のクーパーのシャシーを手配したり、ザントフォールトサーキットを提供してテストやシェイクダウンの場を設けています。ホンダのチャレンジ精神はフーゲンホルツの協力があってなし得たのです。
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オランダGPは85年まで行われ、1年のブランクの後、87年から日本の鈴鹿サーキットでF1は行われています。自身が携わったサーキットがバトンの如く遠い日本に受け継がれ、戦いの舞台となったことをフーゲンホルツはどのようにみていたでしょうか。残念ながら95年にそれも自動車事故により他界し、20年に復活するザントフォールトでのオランダGPを見ることはできませんでした(もし生きていたとしたら106歳)自身が関わったホンダエンジンを搭載した地元の星フェルスタッペンの活躍を我々F1ファンと共に遠くから見守っていることでしょう。


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以前にオランダGPのザントフォールトサーキットを取り扱った際に「いつかフーゲンホルツについて調べたい」と書いたことがあります。本来なら来週末がオランダGPの予定なのですが、残念ながら今年は延期となりました。時間はたっぷりあるし、せっかくなので「フーゲンホルツの残した功績と日本との関わり」について2回に分けて書いていきたいと思います。

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ジョン・フーゲンホルツ
1914年生まれのオランダ人です。一般的にF1やモータースポーツに携わる技術者は機械系や素材系の出身が多く、さらにはサーキットの設計となれば建築や土木などが専門分野ではありますが、フーゲンホルツは元々法律が専門だったようです。意外ですね。その中でオランダの自動車クラブを立ち上げるなど、当初は仕事とは別にアマチュアとしてモータースポーツと関わってきました。1948年に完成したザントフォールトサーキットで49年からサーキットの支配人に就任します。ザントフォールトはフーゲンホルツが設計したと言われていますが、それは誤りで「支配人」としての関わりとなっています。

《サーキット支配人として》
支配人になるとイタリアのモンツァ、イギリスにあるブランズハッチ、ドイツのホッケンハイムリンクやニュルブルクリンクとF1と馴染みのあるヨーロッパ諸国のサーキット支配人と「サーキット支配人連盟」なる会合の会長を務めています。組合みたいで面白いですよね。そこで「イベント時の観客誘導」「音響設備の設置方法」などのマニュアルを整備されたようです。確かにサーキットはレースの場であると同時に、観客に安全かつ快適な観戦をしてもらう場でもあります。このような活動が今日まで「エンターテイメントとして」のモータースポーツの発展に繋がっているのでしょう。

・ザントフォールト(オランダ)
 開業 :1948年
 F1開催:30回
 現状 :使用中(改修あり)
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1952年からザントフォールトがF1オランダGPの舞台に決まり、以降85年まで30回行われることになるわけですが、フーゲンホルツは74年までサーキットの支配人の傍ら、支配人以外の「別の顔」をもつことになります。新規サーキットの運営指導や設計です。

《サーキット運営の指導者、設計者として》
フーゲンホルツが携わったF1に馴染みのあるサーキットは皆さんお馴染みの鈴鹿をはじめ、スペインのハラマ、ベルギーのゾルダーとニヴェルがあります。またドイツのホッケンハイムリンクは改修に携わって今でも(昨年2019年まで)F1で実際に採用された区間が残っています。

・鈴鹿(日本)
 開業 :1962年
 F1開催:31回
 現状 :使用中(改修あり)
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鈴鹿は言うまでもなく日本のモータースポーツを代表する戦いの舞台の一つです。フーゲンホルツはこの鈴鹿をきっかけにサーキット運営の指導者、設計者として展開していきました。
この図をみると、鈴鹿っぽくはあるけど微妙に形が違うような、、これについては次回に少しだけ掘り下げてみたいと思います。黄色ラインでレイアウトを描いていることも覚えておいて下さい。現在は箇所の改修を経て、フーゲンホルツのアイデア以外の要素も加わりましたが、ベースは大きく変わっていません。

・ゾルダー(ベルギー)
 開業 :1963年
 F1開催:10回
 現状 :使用中
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鈴鹿に次いで関わったF1開催サーキットはオランダのお隣ベルギーのゾルダーです。元々ベルギーGPの舞台としてきたスパ・フランコルシャンは公道を使う一周全長14kmと非常に長く、レース自体の速度向上に伴って危険であるとの観点から1970年を最後にカレンダーから外れました。それによって1年のブランクを経て、72年に開業したばかりの後述ニヴェル、そして73年にこのゾルダーでベルギーGPが行われました。サーキット自体はニヴェルより前の63年開業です。短絡的なクローズドサーキットに改修されたスパ・フランコルシャンが誕生するまでの間、F1が10回開催され、84年シーズンをもってベルギーGPの座をスパ・フランコルシャンに戻しています。ゾルダーと聞くとやはりフェラーリ期待の若手G・ヴィルヌーブの事故死が有名です。ヴィルヌーブの名はコーナー名として残り、ゾルダーサーキットはまだ現役として活用されています。

・ホッケンハイムリンク(ドイツ)
 改修 :1966年(開業は1932年)
 F1開催:37回(再改修後を含む)
 現状 :使用中(再改修あり)
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今シーズンはカレンダーからまた外れたホッケンハイムリンクもフーゲンホルツの手が加えられています。1932年にホッケンハイムリンクは今よりも壮大な一周12kmを超える巨大サーキットで開業しました。そこからF1が制定される前の38年に楕円形のような一周全長7.725kmに短縮されています。
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しかしアウトバーンが南北に貫通するように建設されるのを機にフーゲンホルツが現在コントロールラインの置かれる「スタジアムセクション」を設置し、さらに反時計回りしていたトラックを時計回りに切り替えました。70年からF1ドイツGPの舞台に採用された際は森の中の高速区間に速度抑制のシケインを設けてGPを開催。長らくドイツGPとして定着してきました。近年は2002年にヘルマン・ティルケのデザインでさらに短縮化改良を経て現在に至ります(図の赤波線)

・ハラマ(スペイン)
 開業 :1968年
 F1開催:9回
 現状 :使用中
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1950年代にペドラルベス市街地で行われたスペインGPはしばらくF1カレンダーから外れ、再びスペインGPが開催されたのはこのハラマサーキットでの開催によるものでした。81年までの間にモンジュイック・パークと交互の開催で9回F1で使用されています。全長は3.4kmと比較的短く、長いストレートと鋭角なコーナーで構成されています。しかし幅員も狭いため、追い抜きが困難だったといわれます。サーキットレイアウトを見る限り、個人的には四輪レースよりかは二輪や自転車レースの方が適しているような気もします。

・ニヴェル(ベルギー)
 開業 :1971年
 F1開催:2回
 現状 :廃止
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危険とされたスパ・フランコルシャンに替わってベルギーGPが開かれたニヴェルもフーゲンホルツがデザインした一つです。開業した翌年1972年に使用され、翌年は先述のゾルダー、そして1974年もベルギーGPで使用されました。現在はサーキットを廃止し、一般開放されて一部は緑に戻ったものの多くは周辺道路としてサーキットの片鱗を確認することができます。
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《世界各地のサーキットに広まるアイデア》
サーキットの支配人からデザインまで手掛けてきたフーゲンホルツは、あるアイテムを開発し、それが世界中のサーキットに設置されました。それは「キャッチフェンス」です。
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これもフーゲンホルツのアイデアの一つです。ガードレールでクラッシュすると、時として身体を切断してしまう痛ましい事故が多くありました。これであれば衝突時の衝撃をある程度吸収してくれます。今ではさらに改良を経てあまり見かけなくなったものの、安全対策に力を入れていたフーゲンホルツならではの功績ですね。


フーゲンホルツは1995年にザントフォールトで運転中に事故に遭い、妻共々事故死しています。1974年にザントフォールトサーキットの支配人を退いた際は彼の数々の功績を讃え、ターン3は「フーゲンホルツ」という名前が付けられています。退いた後もフーゲンホルツは実に様々な角度からモータースポーツに関わり、後世に伝えてきました。特に日本とは鈴鹿サーキット以外にもいくつかの関わりがあったりします。次回は「フーゲンホルツと日本」についてみていきたいと思います。

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コロナウイルスが世界的に蔓延するこの時期に偉大なF1ドライバーの訃報が入りました。F1の創成期を支え、多くの優勝を挙げたモスが4/12に亡くなりました。コロナウイルスによるものではありませんが、またF1の過去をよく知る貴重なドライバーがまた一人亡くなったことになります。残念ながら数字や記録以外で詳しく知りませんが、追悼を込めてここに記したいと思います。

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スターリング・モス
 1929年9月17日生まれ(イギリス)
 1951年HWMからデビュー F1在籍11年
 優勝16回        歴代17位
 表彰台24回       歴代42位タイ
 参戦数66戦         歴代116位タイ
 ポールポジション16回  歴代19位タイ
 ファステストラップ19回 歴代15位タイ
 チャンピオン0回
 ※戦績ランキングは2019年シーズンまで

 51年 HWM                   1回出走   予選14位 決勝8位
 52年 ERA他                 5回出走   予選9位  決勝R
 53年 クーパー他          4回出走   予選9位  決勝6位
 54年 マセラティ          6回出走   予選3位  決勝3位
 55年 メルセデス          6回出走   予選P.P.  決勝優勝
 56年 マセラティ          7回出走   予選P.P.  決勝優勝
 57年 ヴァンウォール   6回出走   予選P.P.  決勝優勝
 58年 ヴァンウォール 10回出走   予選P.P.  決勝優勝
 59年 クーパー他       8回出走    予選P.P.  決勝優勝
 60年 ロータス他       6回出走    予選P.P.  決勝優勝
 61年 ファーガソン      8回全出走 予選P.P.  決勝優勝

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11年のF1キャリアの中で決勝走行は66戦とさほど多くなく、フル参戦したのはキャリア最終年となる1961年シーズンのみでした。当時のF1はモスのみならずヨーロッパ系のドライバーはアメリカで行われるインディアナポリスGP(インディ500)に参戦しないドライバーが多いため、フル参戦しない傾向にありました。それでも16勝を挙げ、その数だけでみたら歴代17位に位置するトップドライバーとして充分な戦績を残した一人です。

以前に「無冠の帝王」と題した特集を組んだ時に作成したキャリアグラフを載せます。
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F1デビューはモスが21歳にあたる1951年の開幕戦スイスGPとなりますが、実はF1の初戦の前年開幕戦イギリスGPではF1の前座レースにて2位を獲得しており、若いながらもベテランに食らい付ける期待と資質を兼ね備えていることを明らかにしていました。
デビューは地元イギリスのHWM(ハーシャム・ウォルトン・モータース)という現アストンマーチン系のレーシング専門チームから1レース限定のスポット参戦となりました。翌52年もHWMで1レース、そして52年まてERA(イングリッシュ・レーシング・オートモービルズ)で3レースのスポット参戦するも、名門ワークスを駆るベテラン達になす術なく、クーパーに移籍した53年もイマイチ奮わず、入場圏外やリタイヤに終わるレースが続きます。
54年からファンジオと入れ替わる形でマセラティに移籍すると第3戦ベルギーGPは3位で初表彰台を獲得。翌55年はメルセデスに移籍し再びファンジオのチームメイトとして戦い、エイントリーでの第6戦イギリスGPではそのファンジオを従えて初ポールポジションから見事に初優勝を飾るなど、ポイントランキングで2位に浮上してようやくF1で開花し始めます。FullSizeRender
しかしF1から撤退を余儀なくされたメルセデスから古巣マセラティに籍を移したモスの56年は、2回の優勝含めた4回の表彰台登壇でチャンピオンを狙いますが、わずか3ポイントでまたもやファンジオが戴冠。57年はヴァンウォールに移籍し2回のポールポジションとシーズン後半のイギリス、ペスカーラ、イタリアで優勝するも時すでに遅し、またもやチャンピオンはファンジオの手に渡りました。
58年シーズンは3度もチャンピオンを奪ったファンジオは勢力を弱め、58年は3回のポールポジションに4勝を提げて、これでもかと挑んだモス「四度目の正直」は、たった1勝のフェラーリのホーソーンに1ポイントの差で敗れる。4年間で10勝、4年連続のランキング2位、まあ何とツイていないというか持っていないというか。ちなみに歴代16勝を挙げて歴代17位のモスより上は全員チャンピオンを獲得し、モスの一つ下の通算15勝のバトン、その下14勝のJ・ブラバムは3回のチャンピオンを獲得していますし、同じく14勝で並んだG・ヒルもE・フィッティパルディも複数回チャンピオンなわけで、これが「無冠の帝王」と長らく呼ばれた所以でした。時代のイタズラでしょうか。
59年は古巣のクーパー、60年からロータス(ファーガソン)と渡り歩き、毎年優勝は重ねたもののブラバムが台頭したことでランキングを3位に落とし、61年シーズンをもってF1を離れることとなります。以降は耐久レースに活躍の場を移そうとした矢先の62年に大クラッシュを起こして頭部を痛め、32歳の若さでレースの第一線から退くこととなりました。
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「運の無さ」以外にモスの特徴としてあげられるのは「市街地サーキットを得意としていた」点です。全16勝のうち、モンテカルロ市街地で3勝、ペスカーラ市街地、ポルト市街地、アイン・ディアブ、モンサントパークの1勝ずつの合計7勝が市街地サーキットでした。モス自身も市街地を走ることを好んでいたようです。またペスカーラやアイン・ディアブはたった一度キリのサーキットで優勝し、要所を押さえるあたりもレジェンドさを増しています。日本との関わりとして富士スピードウェイの基本レイアウトに関わったことも有名な話です。
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晩年は引退から復帰を果たしツーリングカー選手権に参戦したり、それら数々の活躍を讃えられ「ナイト」の称号が与えられたり、メルセデスではSLRの限定モデルで名が使われるなど、多くのモータースポーツに影響を与え、好評を得てきました。チャンピオンを獲るだけがF1ドライバーではない、それ以上に築いてきて多くの活躍と記録は今後も忘れられることなく語り継がれることと思います。心よりご冥福をお祈りします。

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年末年始など寒い時期になるとこういった知らせを耳にする気がします。昨年は開幕直後のC・ホワイティングやヨーロッパラウンドに入る頃にN・ラウダと立て続いて、F1界に不幸が重なりましたね。そして今年も入って早々に舞い込んできました。日本でF1をテレビ観戦したことがある方なら、一度は耳にしているであろう声。モータージャーナリストの今宮純氏が亡くなりました。中継や解説に無くてはならない人物でmiyabikunもF1ファン初期の頃から大変お世話になりました。経歴についてあまり詳しく知りませんが、今回は掲載予定を急遽変更し、今宮氏に対してmiyabikunが思う印象を言葉にし、偲びたいと思います。

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今宮純
 1949年3月18日生
 神奈川県小田原市出身
 慶應義塾大学文学部図書館学科卒業
 1973年から執筆開始
 1981年からピットレポート開始
 1987年からF1解説開始
 2020年1月4日没(70歳)

年齢的には昨年亡くなったラウダと1ヶ月違いの生まれということで、miyabikunの父と母の間の世代、いわばちょうど親くらいの方。母はまだ存命ですが、このご時世70歳で亡くなるのはまだまだ若過ぎましたね。
大学時代は自動車部に所属し、卒業後は特定の企業に就かずに自動車情報誌に記事を投稿することから始めたようです。文系の出身ですからメカニカルな面から入るというよりかは自動車に魅了された「生粋のマニア目線から」といったところでしょうか。慶應義塾大学出身なのは知りませんでした。優秀な方だったんですね。発言や立ち振る舞いからもインテリな香りはプンプン感じます。

まだF1が日本にあまり知られていない1973年ザントフォールトでの第10戦オランダGPを現地取材されています。奇しくも今シーズンからオランダGPが予定されていますが、残念ながらそのGP観戦には間に合いませんでした。きっと存命であれば当時のオランダGPとの対比を絡めつつ、フェルスタッペン人気をクローズアップされていたんだろうと想像します。
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1987年から始まった日本でのF1全戦放送では初期から解説者に就き「F1放送の顔(声)」と言っても過言ではないくらいの貢献度でした。miyabikunのみならず皆さんもF1を理解する上で重要な位置をなしていた方だったと思います。実直で落ち着きのある語り口はF1の走行シーンとぴったりリンクして頭に刻み込まれています。

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今宮氏の解説で印象的だったのは「数字」「歴史」を盛り込むことが多かったように思います。例えば「このレースが◯戦目」とか「ここで優勝すれば◯◯とタイ記録」「数年前も◯◯が似た事故を起こしていた」とか。miyabikunも観戦記だの過去のレースだのアマチュアF1ジャーナリスト気取りなわけですが、数字を並べたり絡めたりするあたり、どことなく似ていませんか?!意識して真似しているわけではないのですが、これ今宮氏の影響なんじゃないかなと思いました。長い歴史を持つF1ですし、順位や速さ、ポイントを争うF1ですから、単に◯◯が速いとか、抜き方がズルいだ何だというよりかは、それらを絡めた方が盛り上がるし見方も変わると思ってやっています。幼い頃から中継を観て今宮氏の解説を聞き、そういう「F1の見方」が浸透しているんでしょうか。IMG_1368
また時に今宮氏の解説は「無線の英訳能力が無い」や「メカニカルな面など専門性に欠ける」という批判も耳にしました。語学力についてはmiyabikunも恥ずかしながら言い訳できませんが、同じくフジテレビ時代の解説陣には工学の教養もある川井一仁氏をはじめ、実際にモータースポーツでメカニックの経験のある津川哲夫氏や森脇基恭氏なども就いています。それと比較すると感情論や感覚論で説く色が強い今宮氏の解説は少々物足りないと思う方もいたかと思います。でもF1放送は何もモータースポーツマニアや専門家ばかりが観るのではなく「多くの方に関心と楽しさを受け入れてもらう」ことにあると思います。miyabikun個人的にはその角度の解説でも充分楽しむことはできるし、逆に技術だ専門用語だ並べ過ぎるより、これでよかったのではないかなと考えます。現にmiyabikunもブログに書き記すにあたり、多少の専門用語は出てくるにせよ「F1自体を観始めたばかりの方」「久々にF1を思い出す方」「今回初めてブログを読む方」などにも取っつきやすい書き方にしたいと心がけています。そういった思いや考えが今宮氏にもあり、まだ日本にF1に馴染みの無い時代にファンの関心をグッと掴んでこれたんだと思います。

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訃報を聞き、改めて今シーズンの中継を振り返ると、最後にカメラの前に姿が映ったのは第17戦日本GPの「レース前GPニュース」であり、解説された決勝の最後は第19戦アメリカGPでした。声を聞く限り、最近呂律が悪くなったなと感じつつも、いつも通りの解説で違和感は感じませんでした。ただ顔が映ると急に痩せ、顔色を見るとどこか身体に不調があったのかなと不安に感じますよね。まさかこんな短期間で亡くなられるとは、体調が優れない中での解説だったのかと想像すると、心が痛くなります。
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妻の雅子氏と共に長くモータージャーナリストとして活躍され、時には感情的に感傷的にも語った今宮氏。2020年のF1観戦も楽しみにされていたことでしょう。もうあの落ち着きのあるソフトな語り口を聞くことはできなくなりましたが、今後も遠くからF1観戦し、大好きだったセナと思う存分に対談してもらえたらいいなと思います。心からご冥福をお祈りします。
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モナコGP直前に衝撃的なニュースが走りました。F1に長く従事してきたラウダが5/20に70歳で亡くなりました。昨年からの闘病中で今まで生還や復活劇をみせてきたラウダですから、またF1パドックに足を運んでくれることだろうと安直に考えていたのですが、今回はそれも叶わなくなってしまいました。このブログではラウダの「F1以外の面」を度々クローズアップしてきました。訃報をうけ、今回はちゃんとF1におけるラウダをクローズアップし、功績を讃えたいと思います。

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ニキ・ラウダ
    1949年2月22日生まれ(オーストリア)
    1971年 マーチからデビュー F1在籍13年
    優勝25回                          歴代9位タイ
    表彰台54回                       歴代13位
    参戦数175戦                     歴代26位
    ポールポジション24回     歴代11位タイ
    ファステストラップ24回  歴代9位
    チャンピオン3回(1975,77,84)
    ※戦績ランキングは2019年第6戦まで

    71年 マーチ             1回出走    予選21位 決勝R
    72年 マーチ           12回全出走 予選19位 決勝7位
    73年 BRM              15回全出走 予選5位 決勝5位
    74年 フェラーリ    15回全出走 予選1位 決勝1位
    75年 フェラーリ    14回全出走 予選1位 決勝1位 ★
    76年 フェラーリ    14回出走     予選1位 決勝1位
    77年 フェラーリ    15回出走     予選1位 決勝1位 ★
    78年 ブラバム        16回全出走 予選1位 決勝1位
    79年 ブラバム        14回出走     予選4位 決勝4位

    82年 マクラーレン 15回出走     予選2位 決勝1位
    83年 マクラーレン 15回全出走 予選9位 決勝2位
    84年 マクラーレン 16回全出走 予選3位 決勝1位 ★
    85年 マクラーレン 15回出走     予選3位 決勝1位

ラウダの生い立ちや戦績は映画にもなったくらい有名で、当時をよく知らないmiyabikunよりもよっぽど詳しい方が多いと思いますが、知らない方のために一応基礎的なところから入ります。
「ニキ」というのはケケ・ロズベルグの「ケケ」やニコ・ヒュルケンベルグの「ニコ」と同様の愛称であり、本名はアンドレアス・ニコラウス・ラウダです。ラウダは裕福な家庭で生まれ、資産家である父からは後継者として育てられていました。ところがラウダには「レーシングドライバーになる」という野望があり、父の反対を押し切り、自らの生命保険を担保にするなど自力で資金繰りを行ってスポンサー獲得とレース参戦にこぎつけていきました。俗に言う「持参金ドライバー」(ペイドライバー)というやつです。今でいうストロールのような家柄なのに、ストロールと大きく違うのは「お金も技術も自力で」という点でしょうか。ラウダの方は父に勘当されてしまいました。
ヨーロッパF2で頭角を示すと、マーチの代表マックス・モズレーの目に留まり、1971年の母国、第8戦オーストリアGPでF1デビュー。予選22人中21番手、決勝はリタイヤで終えますが、翌72年シーズンからはフルタイム参戦のシートを得て正式に年間レースに加わっていきます。マーチではピーターソンの陰に隠れ、マシンの戦闘力不足もあってなかなか速さを見出すことができませんでした。そこでラウダはフィリップモリス(マールボロ)を味方につけ、73年はBRM(ブリティッシュ・レーシング・モーターズ)へ移籍、ゾルダーで行われた第5戦ベルギーGPで5位入賞を果たします。この活躍が評価され、ラウダの株価は一気に急上昇していきます。
決して速さあるわけではないBRMのマシンで入賞にこぎつけたラウダをエンツォ・フェラーリが高評価、さらに先輩ドライバーのレガッツォーニの後押しもあり、74年からトップチームのフェラーリのシートを獲得することに成功。移籍初戦の開幕戦アルゼンチンGPでいきなり2位表彰台を獲得すると、第3戦南アフリカGPで初ポール、第4戦のハラマでのスペインGPではポールからの初優勝と、ようやく「理論派」ラウダの口だけではない「証拠」を知らしめることとなります。フェラーリ1年目は6戦連続9回のポール獲得で2勝。 2年目75年も9回ポールの3連続を含む5勝を挙げて、F1参戦5年目にチャンピオンの仲間入りを果たしています。
ここまでの経緯をみても、苦労はしつつも知恵や金策を使い、F1の頂点に立ち大成功を収めています。ただラウダのすごいところは映画「RUSH」をご覧になった方ならば若い方でもご承知の通りココからです。チャンピオンとして迎えた76年も序盤から連続優勝や表彰台登壇で着実に連覇を目指している矢先、ニュルブルクリンクでの第10戦ドイツGPでスピンし大破。
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一命は取り留めますが、当然ながら火傷の治療により以降のレースは欠場。F1ドライバー人生すら危うい状況になってしまいました。ところが大手術とリハビリを経て、事故からたった1ヶ月ちょっと、2戦の欠場のみでチームの母国である第13戦イタリアGPは予選5番手、決勝4位でカムバックを果たします。今までも事故や骨折などで戦線離脱し、復帰するドライバーが多くいる中、生死をさまよう事故に遭いながら短期間で復帰したラウダが「不死鳥」と呼ばれる所以はココにあります。それにも関わらずこのシーズンはランキング2位で終え、翌77年は2回目のチャンピオンを獲得してしまうわけですから、怪我をしつつも才能やセンスが錆びることはありませんでした。しかしラウダはフェラーリよりも革新的にマシン開発に取り組むブラバムへの移籍を決めており、第16戦カナダGPと最終戦日本GP(富士スピードウェイ)の2戦を欠場、エンツォ・フェラーリとケンカ別れすることとなりました。
ブラバムではポールポジションや表彰台登壇はあるものの「表彰台かリタイヤか」といったメリハリのある戦績が続き「F1へのモチベーション」が低下する原因の一つとなりました。2年目の79年は表彰台すら無くなり、シーズン残り2戦にあたる第14戦カナダGP予選を前にF1引退を発表、かねて並行していた「ラウダ航空」経営にシフトしていきます。(このF1空白期間については以前に取り扱いました)
一方的なF1引退を発表してしばらく経った82年シーズン前、マクラーレンのロン・デニスがラウダをテストに招き、82年シーズンから再びF1の世界に戻ることとなります。序盤はブランクに適応する手探りな走りとなるものの、第3戦アメリカ西GPと第10戦イギリスGPで優勝を挙げて「予選の出遅れを決勝でしっかり取り返す」という貫禄のレース運びに持ち込んでいきました。84年から若手のプロストがチームメイトとなりエンジンもフォードからポルシェに換装するとチームは一気に上り調子に転換。プロストな7勝を挙げる中、ラウダは5勝でポールポジションがないにも関わらず、わずか0.5ポイント差で3回目のチャンピオンを獲得します。事故前にチャンピオン、事故後もチャンピオン、復帰後もチャンピオンという前人未到のキャリアを成し遂げたラウダは85年のリタイヤ続きに嫌気がさし、プロストに引導を渡す形で「F1正式引退」となりました。
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基礎的と言いつつ、ラウダのキャリアを一言で書けず、だいぶ長くなりました。これ以外にも書き切れないエピソードは沢山あります。ここからはいつものキャリアグラフをみていくことにします。
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1シーズンの参戦ドライバーは現在よりも多くいますが、18位より上を表現しました。キャリア序盤のマーチ時代はポイント獲得がありませんのでグラフに入らない位置にいます。ご覧の通りキャリアのピークは映画にも取り上げられた参戦4年目から7年目に所属したフェラーリ時代で2回チャンピオンを獲得しました。当時のフェラーリもマシン自体がとても優れていたわけではなく、相方レガッツォーニの結果からも「ラウダの腕によって底上げされたこと」が大いに反映されています。ドライビングテクニックもさることながら、メカニカルな面にも知識が長け、マシン改良やセッティング能力も高かったようです。ラウダをフェラーリ加入に肩入れしてくれた先輩を在籍初年から圧倒していました。レガッツォーニの心中も気になるところですよね(笑)
また、ラウダの特徴の一つに「モチベーションに左右される点」もあります。上でも「ケンカ別れ、モチベーション低下、嫌気」という表現しましたが、腕が落ちて移籍や引退を決めたというよりかはフェラーリと不仲になったり、ブラバムの不甲斐無さを理由にしたりと「マシンが気に入らない、他に興味を持った」など、今のドライバーにはあまり無い理由です。ひと昔ふた昔前のドライバーは強気でした。お金よりも満足感やチーム体制との相性なども重要です。

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続いて予選、決勝順位のプロットです。当時は6位までが入賞圏でした。チーム別を色で表現しています。どちらのグラフも26位までの記載とし、27位に集まっているものが決勝リタイヤや失格を示しています。今回は予選決勝を見易く別々にしたので、逆に気付き辛いかもしれませんが、ラウダの特徴的な戦い方を見ることができます。それは「予選よりも決勝の方が順位を上げている点」です。ラウダは通算24回のポールポジションを獲得し、優勝は25勝。ファステストラップ24回でした。プロットをみると、予選順位より決勝順位の方が上にきます。予選は上位でなくても、決勝レースでうまく前に出て上位フィニッシュする。ライバルに離されたらマシンをぶつけたり壊さないようにして入賞を獲得する。その積み重ねが84年の「勝利数が少なくても年間で上回る」という賢い勝ち方です。人間、特にスポーツマンはライバルに勝ちたい、前にいたいという気持ちが強く出ます。ラウダはその「うわべだけの位置」に捉われず、ルールに則した手段を冷静に選べるドライバーでした。ラウダよりも前の時代はmiyabikunではなお知りえませんが、後世ではプロストをはじめ、M・シューマッハやアロンソはこのような勝ち方を積み重ねてきましたよね。「速い」という言葉よりも「強い」「手強い」という言葉がしっくりきます。プロストは特に、ラウダの真横で悔しい思いをしましたもんね。プロストの計算づくのレースペースや緩急ある走りなど、ラウダからの影響もあるはずです。

こちらもドライバー系お馴染みのもの「チームメイト対決」です。この時代、特に70年代は現在のように2人体制でなかったり、シーズン中のチェンジもよくあることでした。ライバル側は代表的なドライバーのみの名前を記載しています。また、チーム自体参加しなかったレース、ラウダが出走していないレースは勝敗をつけられないため除外しました。
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こうしてみてもフェラーリ在籍時は優勢に立つことが多くても、他はうまく勝敗を分け合っているように思えます。75年と77年は(実は事故した76年ももしかしたら)チャンピオンを獲得したので察しが付きますが、引退復帰後の84年もプロストに対して辛勝したチャンピオンイヤーでした。決勝よりも予選ではプロストに圧倒的に負け越しています。それでもチャンピオンを獲得してしまうのだから、先述のようにラウダの「勝利への方程式」は希少なやり方でした。デビュー直後と晩年は大敗しているものの、ラウダが負け越しているのはピケやプロスト、逆に勝ち越しているのはレガッツォーニやロイテマン、ワトソンと考えると「チャンピオンになれる、なれない」がはっきり分かれてみえます。

最後は先程描いたラウダのランキンググラフに同時代のライバルを加えて、例のごとくぐちゃぐちゃになっちゃっているグラフをご覧頂きます。ラウダは今回の主役ですので黒太線、チャンピオン獲得者8人は色別の実線、あとチャンピオンではありませんが、チームメイトになったりこの時代を象徴するドライバー3人を破線で色分けしています。ちなみに82年のみチャンピオンが空欄ですが、ご存知の通り1勝チャンピオンのK・ロズベルグです。時代に若干のズレがあると考えて除外しました。
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60年代末から70年代前半に圧倒してきたスチュワートが身を引くと、そこから一気にラウダをはじめとした若手のライバルが台頭してきています。70年代中盤になってフェラーリを操るラウダが一時代を築いて、隙を狙う形でピンク色のハントが割って入っています。要はココが映画で描かれた時代ですね。ラウダが1回目の引退をすると、もっと若手の天才ピケ(父)やプロスト、比較対象からは除外しているG・ヴィルヌーブ(父)あたりが名乗りを上げ、復帰したラウダもそれに負けじと食らいついた様子がわかります。ラウダのライバルのイメージが強いハント以外にも、実に数多くのライバルを相手にF1界のトップに君臨し続けたわけです。グラフがぐちゃぐちゃしていることは、グラフが見辛い以前に「混戦の末チャンピオン争いをした時代であった」ことも合わせて読み取れます。
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去る5/29にオーストリアの聖ステファン教会にてラウダの葬儀が執り行われました。F1ドライバー時代も様々な復活劇を遂げ、ドライバーから離れたのちの最近までF1に携わってきたラウダもさすがに病相手には勝てませんでした。ただ速かった、強かったドライバーという一言では片付かず「自負、理論だったバトル、問題提起と改善」といった頭を使う稀有のレジェンドはF1で異彩を放ちました。古舘伊知郎風に表現するとしたら「F1働き方改革」とでも呼びそう(笑)全てはとても真似できないけど、我々もその「ラウダニズム」を持って取り組めば、効率的に物事をゴールまで進めていける、と教えてくれたように感じます。

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これからは遠くからゆっくりF1観戦し、昔の仲間と辛辣な評価をしてもらえたらいいなと思います。最後になりましたが、心よりご冥福をお祈りします。

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