先日の「名車を振り返る」は前グラウンドエフェクトカー最終年にあたる1982年のブラバムBT50(BT49D)を扱いました。今回みていくチャンピオン獲得前の名車はウィリアムズにとって初代グラウンドエフェクトカーとなる79年型FW07になります。
《設計》
パトリック・ヘッド
ニール・オートレイ
フランク・ダーニー
《外見》
「グラウンドエフェクト」(地面効果)を利用した技術やマシンは以前からありましたが、なかなか成功に至らず77年にロータスが成功に導いたことをきっかけにライバル達も追従、研究が進められました。
79年型FW07自体は78年末から「グラウンドエフェクトカー」として研究開発が進められていたものの、シーズンオフで完成できず、開幕戦アルゼンチンGPは79年を戦ったFW06を引き続き使用するという判断を下します。FW06は「ウィリアムズ・グランプリ・エンジニアリング」というれっきとしたF1コンストラクターとしてパトリック・ヘッドが初めて手掛けたマシンであり、当然ながらノングラウンドエフェクトカーです。
FW06はヘッドがウルフに在籍した時代のノウハウやコンセプトが盛り込まれていましたが、時代はグラウンドエフェクトを用いる時代を迎えていたため、チームとしても本意ではありませんでした。そこでシーズン1/3を消化するヨーロッパラウンド初戦、ハラマで行われる第5戦スペインGPでグラウンドエフェクトを盛り込んだFW07のデビューに踏み切ります。
FW07は低めに角張ったサイドポンツーンにラジエター類を配置して「一枚羽根」のようなデザインに切り替えています。ぱっと見はグラウンドエフェクトの先駆けである78年型ロータス79に酷似しています。
ノーズはオイルクーラーを移設し、開口を廃止。アルミ製ハニカム構造のモノコック一体型で強固に仕立て上げられました。
サイドポンツーン側部は真っ直ぐ立ち上がり、今シーズン2022年型マシンでは許されていませんが、当時のグラウンドエフェクトカーの代名詞である「スライディングスカート」が備え付けられています。マシンのフロアと路面の間を走る速い気流を外部(ここでいうマシンの側面を走る気流)に対しリヤエンドまで気密状態にすることを目的としました。スカートについては後に可動の禁止やその材質、高さ、厚みなどに規制が加わっていきます。
ウィリアムズのようなプライベートチームがF1に参戦する上で最も重要なことは「スポンサーを付けて資金を集めること」です。フランク・ウィリアムズは航空会社「サウディア」(サウジアラビア航空会社)やTAG(後のタグ・ホイヤー)など実際にはF1が開催されることの無いサウジアラビア企業を味方につけて資金繰りを行っています。マシンの白地に緑と青のラインは当時のサウディアの機体のカラーリングそのものです。
《シャシー》
全長: - mm
全幅: - mm
全高: - mm
最低車体重量:588kg
燃料タンク容量: - ℓ
クラッチ: -
ブレーキキャリパー: -
ブレーキディスク・パッド: -
サスペンション:フロント -
リヤ -
ホイール: -
タイヤ:グッドイヤー
《エンジン》
フォード コスワースDFV
V型8気筒・バンク角90度
排気量:2,993cc
エンジン最高回転数:10,800rpm(推定)
最大馬力:485馬力(推定)
スパークプラグ:チャンピオン
燃料・潤滑油:モービル
《ドライバー》FW07は第5戦スペインGPから
No.27 アラン・ジョーンズ (全戦)
No.28 クレイ・レガッツォーニ(全戦)
ドライバーは前年までのジョーンズ一人体制からベテランのレガッツォーニを迎え、チームとしてさらなる戦闘力強化を図っています。
《戦績》
75ポイント コンストラクター2位
ただしFW07としては71ポイント
(1位5回、2位2回、3位2回、4位1回ほか)
ポールポジション3回
1979年の開幕は前年使用したFW06が使用され、入賞はジョーンズによる第4戦アメリカ西GPでの3位1回に止まりました。そしてライバルから遅れること一年以上の時間を要し、ハラマでの第5戦スペインGPより、ウィリアムズ初のグラウンドエフェクトカーFW07が実戦走行を迎えます。
初戦からいきなりグラウンドエフェクトカーによる飛躍がみられたというわけではなく、予選はFW06と大きく変わらずの13、14番手。決勝は両者ともリタイヤで終えています。ゾルダーで行われた翌第6戦ベルギーGPはジョーンズが予選で4番手を獲得、決勝は電気系トラブルにより惜しくもリタイヤとなりますが、第7戦モナコGPではレガッツォーニは予選16位から2位表彰台を獲得するなど、新車導入の成果が徐々に発揮し始めます。
そして第9戦イギリスGPでジョーンズがチーム初となるポールポジションを獲得(ジョーンズ自身も初ポール)、予選4番手だったレガッツォーニがチーム初優勝を挙げ、ウィリアムズの母国レースに花を添えています。
その後は初優勝がきっかけとなったか、成績が右肩上がりに転じ、ジョーンズが第10戦ドイツGPから三連勝を含めた4勝を挙げ、コンストラクターズランキングはリジェやロータスといった競合を上回る2位にランクアップ。ジョーンズはドライバーズランキングは3位を獲得しました。
FW07での戦績は11戦中5勝、9表彰台、3回のポールポジションとなりました。この年のチャンピオンはフェラーリとシェクターによるダブルチャンピオンという形となった訳ですが、有効ポイントの計上が今とはだいぶ異なり「前半7戦から4戦分。後半8戦から4戦分の上位ポイントをカウントする」ものでした。チャンピオンを獲得したシェクターの前半は30ポイント、後半は21ポイントを数えて、トータルは51ポイント。一方でシーズン唯一の三連勝を挙げたジョーンズの前半はわずか4ポイント、後半は4勝分の36ポイントでトータル40ポイントと後半で稼ぐもシェクターに11ポイント上回っています。皆同じレギュレーション下でやっているため、公平や不公平などはありませんが、後半8戦だけでみたら、ジョーンズは誰よりもポイントを稼いだドライバーでした。つくづく序盤戦の「グラウンドエフェクトを期待しない」旧型マシンFW06での取りこぼしが悔やまれます。なお、チームメイトのレガッツォーニは前半6ポイント、後半23ポイントを獲得していることからも、このシーズンのウィリアムズのバイオリズムを象徴すると共に、FW07の戦闘力を知らしめるものでした。
ただこの戦績は決して無駄なものではなく、ドライバーをレガッツォーニからロイテマンに代えた翌80年、改良型のFW07Bで臨んだジョーンズが5勝を挙げ、ウィリアムズ初のドライバーズおよびコンストラクターズの両チャンピオンを獲得。ウィリアムズは一気にトップチームに名乗りを挙げることとなりました。その足がかりとなったFW07はウィリアムズのみならずF1界でもれっきとした名車の一つに数えられます。
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《設計》
パトリック・ヘッド
ニール・オートレイ
フランク・ダーニー
《外見》
「グラウンドエフェクト」(地面効果)を利用した技術やマシンは以前からありましたが、なかなか成功に至らず77年にロータスが成功に導いたことをきっかけにライバル達も追従、研究が進められました。
79年型FW07自体は78年末から「グラウンドエフェクトカー」として研究開発が進められていたものの、シーズンオフで完成できず、開幕戦アルゼンチンGPは79年を戦ったFW06を引き続き使用するという判断を下します。FW06は「ウィリアムズ・グランプリ・エンジニアリング」というれっきとしたF1コンストラクターとしてパトリック・ヘッドが初めて手掛けたマシンであり、当然ながらノングラウンドエフェクトカーです。
FW06はヘッドがウルフに在籍した時代のノウハウやコンセプトが盛り込まれていましたが、時代はグラウンドエフェクトを用いる時代を迎えていたため、チームとしても本意ではありませんでした。そこでシーズン1/3を消化するヨーロッパラウンド初戦、ハラマで行われる第5戦スペインGPでグラウンドエフェクトを盛り込んだFW07のデビューに踏み切ります。
FW07は低めに角張ったサイドポンツーンにラジエター類を配置して「一枚羽根」のようなデザインに切り替えています。ぱっと見はグラウンドエフェクトの先駆けである78年型ロータス79に酷似しています。
ノーズはオイルクーラーを移設し、開口を廃止。アルミ製ハニカム構造のモノコック一体型で強固に仕立て上げられました。
サイドポンツーン側部は真っ直ぐ立ち上がり、今シーズン2022年型マシンでは許されていませんが、当時のグラウンドエフェクトカーの代名詞である「スライディングスカート」が備え付けられています。マシンのフロアと路面の間を走る速い気流を外部(ここでいうマシンの側面を走る気流)に対しリヤエンドまで気密状態にすることを目的としました。スカートについては後に可動の禁止やその材質、高さ、厚みなどに規制が加わっていきます。
ウィリアムズのようなプライベートチームがF1に参戦する上で最も重要なことは「スポンサーを付けて資金を集めること」です。フランク・ウィリアムズは航空会社「サウディア」(サウジアラビア航空会社)やTAG(後のタグ・ホイヤー)など実際にはF1が開催されることの無いサウジアラビア企業を味方につけて資金繰りを行っています。マシンの白地に緑と青のラインは当時のサウディアの機体のカラーリングそのものです。
《シャシー》
全長: - mm
全幅: - mm
全高: - mm
最低車体重量:588kg
燃料タンク容量: - ℓ
クラッチ: -
ブレーキキャリパー: -
ブレーキディスク・パッド: -
サスペンション:フロント -
リヤ -
ホイール: -
タイヤ:グッドイヤー
《エンジン》
フォード コスワースDFV
V型8気筒・バンク角90度
排気量:2,993cc
エンジン最高回転数:10,800rpm(推定)
最大馬力:485馬力(推定)
スパークプラグ:チャンピオン
燃料・潤滑油:モービル
《ドライバー》FW07は第5戦スペインGPから
No.27 アラン・ジョーンズ (全戦)
No.28 クレイ・レガッツォーニ(全戦)
ドライバーは前年までのジョーンズ一人体制からベテランのレガッツォーニを迎え、チームとしてさらなる戦闘力強化を図っています。
《戦績》
75ポイント コンストラクター2位
ただしFW07としては71ポイント
(1位5回、2位2回、3位2回、4位1回ほか)
ポールポジション3回
1979年の開幕は前年使用したFW06が使用され、入賞はジョーンズによる第4戦アメリカ西GPでの3位1回に止まりました。そしてライバルから遅れること一年以上の時間を要し、ハラマでの第5戦スペインGPより、ウィリアムズ初のグラウンドエフェクトカーFW07が実戦走行を迎えます。
初戦からいきなりグラウンドエフェクトカーによる飛躍がみられたというわけではなく、予選はFW06と大きく変わらずの13、14番手。決勝は両者ともリタイヤで終えています。ゾルダーで行われた翌第6戦ベルギーGPはジョーンズが予選で4番手を獲得、決勝は電気系トラブルにより惜しくもリタイヤとなりますが、第7戦モナコGPではレガッツォーニは予選16位から2位表彰台を獲得するなど、新車導入の成果が徐々に発揮し始めます。
そして第9戦イギリスGPでジョーンズがチーム初となるポールポジションを獲得(ジョーンズ自身も初ポール)、予選4番手だったレガッツォーニがチーム初優勝を挙げ、ウィリアムズの母国レースに花を添えています。
その後は初優勝がきっかけとなったか、成績が右肩上がりに転じ、ジョーンズが第10戦ドイツGPから三連勝を含めた4勝を挙げ、コンストラクターズランキングはリジェやロータスといった競合を上回る2位にランクアップ。ジョーンズはドライバーズランキングは3位を獲得しました。
FW07での戦績は11戦中5勝、9表彰台、3回のポールポジションとなりました。この年のチャンピオンはフェラーリとシェクターによるダブルチャンピオンという形となった訳ですが、有効ポイントの計上が今とはだいぶ異なり「前半7戦から4戦分。後半8戦から4戦分の上位ポイントをカウントする」ものでした。チャンピオンを獲得したシェクターの前半は30ポイント、後半は21ポイントを数えて、トータルは51ポイント。一方でシーズン唯一の三連勝を挙げたジョーンズの前半はわずか4ポイント、後半は4勝分の36ポイントでトータル40ポイントと後半で稼ぐもシェクターに11ポイント上回っています。皆同じレギュレーション下でやっているため、公平や不公平などはありませんが、後半8戦だけでみたら、ジョーンズは誰よりもポイントを稼いだドライバーでした。つくづく序盤戦の「グラウンドエフェクトを期待しない」旧型マシンFW06での取りこぼしが悔やまれます。なお、チームメイトのレガッツォーニは前半6ポイント、後半23ポイントを獲得していることからも、このシーズンのウィリアムズのバイオリズムを象徴すると共に、FW07の戦闘力を知らしめるものでした。
ただこの戦績は決して無駄なものではなく、ドライバーをレガッツォーニからロイテマンに代えた翌80年、改良型のFW07Bで臨んだジョーンズが5勝を挙げ、ウィリアムズ初のドライバーズおよびコンストラクターズの両チャンピオンを獲得。ウィリアムズは一気にトップチームに名乗りを挙げることとなりました。その足がかりとなったFW07はウィリアムズのみならずF1界でもれっきとした名車の一つに数えられます。
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コメント
コメント一覧 (8)
お世話になります。
昔のウイングカー時代シリーズ歴代マシンは、本当に凄いですね。
元祖ロータスが築き上げたウイングカーを更に磨きあげて発展させたのが、今回紹介されたウィリアムズのマシンですね。
この時はロータスや前回のブラバムと同じようにフォードコスワースのV8エンジンでも車体が良ければ充分競争力が有って勝つ事が出来ましたね。
まだフェラーリやルノーが使っていたV6ターボエンジンの信頼性や燃費性能に不安があったのも理由でしたが?
今では名門チームのウィリアムズも、この頃はまだ新興チームでしたね。
アラン・ジョーンズはウィリアムズにとっても最初のチャンピオンドライバーでしたね。
それにはロータスが欲を出して車体を大きくし過ぎた(サイドポンツーンを長くした)のが最大の原因ですね。
車体を大きく伸ばすのは悪い事では無いですが、フロアの強度剛性が足り無くなってダウンフォースに車体が負けてしまったようです。
同じ事がアルファロメオV12を搭載していた時のブラバムやマトラV12を搭載していたリジェにも言えるのですが、多気筒マルチエンジンを使ったので
ホイールベースの長いマシンになりました。
両チーム共にフォードコスワースV8エンジンに変更した途端、一気に速いマシンになりました。
こんばんは。いつも昔のF1を詳しく補足いただき
ありがとうございます。非常に勉強になります。
F1を観始はじめて、過去のことも知りたくなった頃は
80年代以前のマシンは小さく、各チームバラバラで
現代からローテクに見えたものですが、
歳を重ね、様々な技術的苦労を少しずつ理解できる
ようになると、今の時代には無いオリジナリティや
マシンへの違ったアプローチがみられて、
とても深いなぁとつくづく感じます。
このような技術躍進や独自開発、台頭しては
レギュレーションに阻まれてを繰り返し、
現在のレギュレーションやマシンに辿り着いたわけ
ですもんね。
古い時代になればなるほど、生き証人やビデオ、
書籍が貴重な情報源になります。
ライバルと比べるとやや出遅れ気味のウィリアムズの
グラウンドエフェクトカーですが、
比較的短期間で成績を上げ、台頭したことが
わかります。プライベーターとは切っても切れない
スポンサー誘致も成功し、ドライバーも2人体制で
正しく名門コンストラクターに食ってかかる
貪欲なウィリアムズの始まりのマシンです。
エンジンこそ当時のトレンドである
フォードDFVと非力さは否めませんが、
信頼性や燃費問題を考えると、プライベーターとして
できる最大限で運営、参戦していたのも功を奏した
ように感じます。
グラウンドエフェクトカーで重要なのは
シャシー剛性とサスペンションの強度と挙動、
絶妙な最低車高にあります。
この点は現代の「第二グラウンドエフェクトカー期」
においても変わらず起きていますね。
まだポーポシングに苦しむチームはこれを早く
最適なものにしないと、ライバルには引き離され、
いつまでもコントロールに手を焼くままとなります。
ヨーロッパラウンドに突入し、どれだけ改良できるか
各チームの出方も非常に興味深いです。
毎度ありがとうございます。
フロントノーズ先端にラジエーターを配置するのは懐かしいですね。
現在のF1マシンでは考えらないです。笑
サイドポッド左右に熱交換器をレイアウトするのは一般的になりました。
そこに今ではインダクションポッドにも配置するセンターラインクーリングも使っていますね。
ポーパシング現象は、ウイングカー(グラウンドエフェクトカー)の副作用みたいなモノで避けては通れ無いですね。
今シーズン中に改善して如何に少なく抑えて行くか?
クレイ・レガッツォーニも懐かしいですね。
この頃には超ベテランの大御所ドライバーで、あのニキ・ラウダも一目置いていました(尊敬リスペクトしていました)
ラウダのフェラーリ時代チームメイトだったのがレガッツォーニで、ラウダの御師匠様みたいな存在でした。
ラウダがエンツォ・フェラーリ御大と大喧嘩してチームを抜け出した原因もレガッツォーニの処遇が原因(レガッツォーニを放出してロイテマンを獲得)だったと言われていますね。
お世話になります。
昔のウイングカーで絶対必需品だったサイドスカートですが、
1980年までは可動式スライディングスカートが認められていましたが、
1981年からは固定式スカートに規則変更されましたですね。
それによって各チームは対応に迫られましたが
ブラバムのデザイナー、ゴードン・マレーが上手い方法を見つけて固定式スカートでも可動式スライディングスカートと同じ効果を発揮出来る手段手法を見つけました。
スカート単体を上下に動かすのがダメなら車体全体を上下させてスカートを路面に接触させれば良い?と言う発想。
そのための特殊なサスペンション「ハイドロニューマチックサスペンション」をブラバムBT49に取り付けましたね。
この「ハイドロニューマチックサスペンション」ですが、後のアクティブサスペンションにつながる?
それ以外にもロータスが発案したロータス88の通称「ツインシャーシ」もありました。
ドライバーが潜り込むモノコック(セカンダリーシャーシ)と外側カウルカバーとサイドポッドとフロアパネル(プライマリーシャーシ)を別々のスプリングバネで支えるサスペンションにしました。
残念ながらレギュレーション規則のF1マシンは1つの車体シャーシで構成されてなければならないと言う項目に抵触して実戦走行禁止となりました。
こんばんは。いつも沢山ありがとうございます。
70年代中盤はノーズセクションに冷却機を
おさめたマシンが流行っていましたね。
90年代からF1を観始めたmiyabikunには始め
違和感しかありませんでした。
ちょうどそのディテールの終焉を迎えたきっかけが
このグラウンドエフェクトカーでした。
レガッツォーニも懐かしいでしょう。
miyabikunが初めてレガッツォーニの存在を
知ったのは、引退から10年以上後のホンダのCM
でした。
車椅子から改造されたNSXに乗り込み、
楽しそうにサーキットをドライブする姿が印象的で、
映画「RUSH」に登場した俳優の再現度にも
驚かされました。
ラウダとの逸話も数々ありますよね。
なかなか予習や文献を漁りながらの
執筆にはなりますが、これからも70年代や80年代
前半のF1史にもチャレンジしていきたいと思います。
いつも、ありがとうございます。
F1関連の映画って「RUSH」以外にも多く製作されてましたですね。
セナのドキュメント映画も有りました。
その前に日本題名「グッバイ・ヒーロー」と言う歴代F1ドライバーの活躍
をドキュメントタッチに描いた映画も有りました。
1985年を最後に完全引退したラウダが1987年のサンマリノGPイモラサーキットを訪れて現役ドライバーのプロスト、ピケ、マンセル、セナにインタビューするシーンが写っていました。この年ロータスホンダでF1デビューした中嶋悟選手がラウダから色々質問されて英語で答えていたシーンが渋くて格好良かったでした。
クレイ・レガツォーニがインディー500に挑戦して大クラッシュしたシーンも有りました。怪我も無くマシンから脱出して無事でした。
こんばんは。
miyabikunまだセナのドキュメンタリー映画を
観られていないのです。
セナファンなんて名乗ってはいけないセナファンです。
あと、F1映画の代名詞「グラン・プリ」も未視聴。
大学時代にTSUTAYAで長らくアルバイトを
していたのに、スルーしちゃっていました(笑)
ただし何故だかF1ではない「ドリブン」は
映画館まで足を運ぶというよくわからない経歴。
スタローンファンというわけでもありません。
今考えてみると、大学時代はある意味
イカれていたのかも。。