IMG_3073
新型コロナウィルスに翻弄されて、未だ明確な開催に踏み切れないでいる今シーズンのF1。開催可能なサーキットで二回連続開催やら、逆走レイアウト採用だの様々な検討、模索していますね。ファンとしては何らかの形で無事に開幕してくれれば文句は言いませんし、むしろ感謝したいところですが、やはりスタッフや現地観戦するファンの安全が第一。世界を転戦するイベントなだけに感染拡大や批判の対象など無いよう慎重な判断を願いたいものです。
この開催すらできていない状況には反した話題にはなりますが、今までF1では「一国一開催」の原則がある中、様々な工夫と理由で複数開催を行った時代やGPがあります。本来であれば来週は元ヨーロッパGP、現アゼルバイジャンGPの行われる時期です。今回はヨーロッパGPに代表されるF1の「一国二開催以上のGPと変遷」をフォーカスしたいと思います。

まず四の五の言う前に今回はグラフを先に掲載したいと思います。
IMG_3297
これがノンタイトル戦を除き一国二開催以上を行った国とサーキット一覧になります。縦軸は1950年から5年刻みに破線を入れ、色の表現により開催の有無を示しました。何だかモールス信号みたいになってしまいました(笑)いつものグラフや表の2倍の大きさです。ダメですよ、この大きさをA4サイズで印刷したら「小さ過ぎて読めない!」なんて上司に怒られてしまいますよ、A3サイズ縦にしないと(笑)

グラフの見方を説明します。
 濃い色の塗り潰し :その国のメインGP
           ex.鈴鹿での日本GP
 薄い色の塗り潰し :二開催目以上にあたるサブGP
           ex.日本のパシフィックGP
 塗り潰しの無いもの:グラフにないサーキット
           ex.富士、COTAなど
 黒太枠で囲ったもの:「ヨーロッパGP」を強調
 枠すら無いもの  :F1が開催されていない

ケチらずその国で行われた全てのサーキットも並べればよかったのですが、それをやるとA2サイズで印刷しなければならないくらい大きく、さらに煩雑になるので割愛しました。GPは四輪の場合「その国の最高峰の大会」に冠しますので、F1で日本GPを名乗るとF1以外の四輪カテゴリーで日本GPは使えません。二輪は四輪とは別に日本GPが使用できます。また当然ながら一国一開催が原則であるため、何らかの理由で二開催する際は別称を与えて「あくまで一開催である」表現をする必要があります。では以下で各国単位に四の五の書いていきたいと思います。


《イタリア》
 57年第2戦 ペスカーラGP ペスカーラ市街地
 57年第8戦 イタリアGP     モンツァ

F1における最も古い「一国二開催」はイタリアによるものでした。F1制定初年の50年からイタリアGPといえばミラノ郊外にあるモンツァが代表格です。そんな中、57年に東海岸のペスカーラの市街地を使って一周25kmにも及ぶF1史上最長のペスカーラGPがたった1回だけ行われました。なぜペスカーラが選ばれたのかmiyabikunは定かではありませんが、この50年代後半は55年のル・マン24時間レースで多数の死亡事故が起き、スイスやスペイン、ドイツやフランスGPといったF1開催の常連国が中止するなど、モータースポーツに対して消極的な時期と重なりますので、昔からレースが行われきたこの地を選手権に加えたのでしょうか。ペスカーラ市街地でのカーレース自体は57年に止まらず、F1制定前の1924年から61年までと実に長きに渡り使用されていました。

 81年〜06年 サンマリノGP イモラ
 81年〜06年 イタリアGP     モンツァ

イタリアの二開催の代表格といえばボローニャ郊外のイモラ市にあるエンツォ・エ・ディノ・フェラーリで行われたサンマリノGPですね(グラフでは長いので「イモラ」と表現しています)前に「今はなきGPとサーキット」でも書いていますが、サンマリノ国は実際に近隣にあるものの、このサーキットの所在はイタリア国内となります。F1の長い歴史の中で最多の開催を誇るのがイタリアGPのモンツァで、その数は69回です。80年の1年だけこのサーキットを使ったイタリアGPが行われ、以降はサンマリノGPという冠でイタリアの一国二開催を続けてきました。セナやラッツェンバーガーの死亡事故で悪名高いイメージがある通り、高速寄りのマシンレイアウトでこれ以外の事故も多発し、度々の軽微変更を繰り返しています。F1といえばフェラーリ、フェラーリといえばイタリアのサーキットが真っ赤に染まるのは風物詩でもあります。しかし、たまたまなのか偶然か、フェラーリで5連覇を果たしたM・シューマッハの引退と時を同じく06年をもってイタリアの一国二開催にピリオドが打たれました。サーキットは今でも現存し、他カテゴリーで使用されています。

《アメリカ》
 59年〜60年 インディアナポリスGP
 59年第9戦   アメリカGP  セブリング
 60年第10戦 アメリカGP  リバーサイド

F1はヨーロッパ発祥のモータースポーツ。その体質は今でも大きく変わらないわけですが、実は大国アメリカにもF1は古くから多くの関わりを持っています。まずは今でも「世界三大レース」に数えられるインディアナポリスGPから始まりました。いわゆるインディ500です。ただご存知の通りインディアナポリスGPと他のGPではドライバーやチームに隔たりがあり「同じF1というくくり」としては温度差を感じます。したがって実質的な「アメリカの初F1上陸」は59年の第9戦に設定されたセブリングが発祥になりそうですね。こちらは我々もよく知る名前のドライバーやチームで占められます。

 76年〜83年 アメリカ西GP ロングビーチ市街地
 76年〜80年 アメリカ東GP ワトキンスグレン
 81年〜82年 アメリカGP     ラスベガス
 82年〜84年 アメリカ東GP デトロイト市街地
 84年第9戦   アメリカGP     ダラス市街地

グラフからもわかるように、アメリカGPは全く行われない時期を度々経験してきました。60年シーズンから15年近くの空白の時を経て、70年代後半からは「アメリカ黄金期」ともいえる大フィーバーを迎えます。アメリカを東西に分けて一国二開催を実現しました。それの最たるものが82年です。第3戦ロングビーチでのアメリカ西GP、第7戦は自動車産業が盛んなデトロイトでのアメリカ東GP、そして最終戦はカジノなどの娯楽が盛んなラスベガスでホテルの駐車場をサーキットに仕立てたアメリカGP(ラスベガスGP)の「一国三開催」です。自国でも独自のモータースポーツ文化がありながら「盛り上がる(お金をおとしてくれる)ならウェルカム」という、さすがアメリカといった感じですね。ちょっと変わった点としては85年と86年の2年はデトロイトに絞った開催なのに「アメリカ東」という名で行ったたのが面白いです。その後フェニックス市街地や先述インディアナポリスのバンクを逆走させて復活したり、オースティンに新設したサーキット・オブ・ジ・アメリカズ(通称COTA)など現在も続くアメリカGPですが、現時点は原則の一国一開催に戻りました。今のF1の興行権を持つのがアメリカのテレビ会社「リバティメディア」度々第二アメリカGP計画が噂に上がり、今後新たな一国二開催を実現しそうな国の最有力候補にあります。やりたい主催者、よく思わない住民。市街地サーキットはこの協議が大変。

《フランス》
 82年第11戦 フランスGP ポール・リカール
 82年第14戦 スイスGP    ディジョン・プレノワ

久々の復活を果たしたフランスGPも一度だけ一国二開催を経験しています。実はスイスGPも首都ベルンのブレムガルテンでF1初年の50年から5回行われていました。しかし先述55年ル・マン24時間レースの死亡事故の影響から廃止されています。ちょうどフランス人のプロストが台頭した頃、フランスGPとして開催されていたディジョンとポールリカールのどちらも開催するために、このディジョンを82年だけスイスGPと冠して行いました。先程のサンマリノGPもそうですが、実際はやっていないのに近くの国の名前をお借りしてやるのは本当はズルだけど、その国の人からみればちょっと得した気分になります。日本は島国だからこのやり方は通用しませんし、日本の採った策はこのあと取り上げます。

《イギリス》
 83年,85年 イギリスGP     シルバーストン
 83年,85年 ヨーロッパGP ブランズハッチ

F1では古くから歴史を持つイギリスGPも過去にやっていました。現在もイギリスGPの舞台として続くシルバーストンと交互開催を行ってきたブランズハッチに対して、83年にブランズハッチ側をヨーロッパGPと名付けて2回開催しました。時期的にはちょうど母国のマンセルやマクラーレンの台頭にあたる頃でしょうか。一国二開催を象徴する非常に便利な呼び名「ヨーロッパGP」はこれが発祥です。

 93年第3戦   ヨーロッパGP ドニントンパーク
 93年第14戦 イギリスGP     シルバーストン

90年代に入り、次はシルバーストンとドニントンパークによる二開催もありましたね。こちらは見事なスタートダッシュを決めたセナで超有名な「雨のドニントン」と呼ばれるやつですね。ドニントンでのF1はF1史において非常に有名ではありますが、F1が行われたのはたったの一度キリ。サーキット自体は現存し、他カテゴリーが使用しています。

《ドイツ》
 84年第12戦 ドイツGP        ホッケンハイムリンク
 84年第15戦 ヨーロッパGP ニュルブルクリンク

 95年〜96年 ドイツGP        ホッケンハイムリンク
 95年〜96年 ヨーロッパGP ニュルブルクリンク
 97年〜98年 ドイツGP               ホッケンハイムリンク
 97年〜98年 ルクセンブルクGP ニュルブルクリンク
 99年〜06年 ドイツGP        ホッケンハイムリンク
 99年〜06年 ヨーロッパGP ニュルブルクリンク

一国二開催のF1でイタリアとサンマリノの関係の次に有名ともいえるのがドイツですね。上記だけみていると名前も長いしややこしく見えますが、ルールは実にシンプル。ドイツGPがホッケンハイムリンクでヨーロッパGPがニュルブルクリンクです。元々ドイツGPといえば市販車開発テストやゲームなどでもお馴染みのニュルブルクリンク北コース(ノルトシュライフェ)が用いられてきましたが、長く狭く難しく、ラウダ瀕死の事故も発生し、危険であることから舞台をホッケンハイムリンクに移すこととなりました。しかしニュルブルクリンクは短絡な「GPコース」を開設し、83年にイギリスGPで採用されたヨーロッパGPの名を使って84年に復活、以降95年から06年まで二開催を実現しました。95年から06年までのドイツといわれると、ある人がピンと浮かぶと思います。そうM・シューマッハ。まさしくシューマッハの活躍に乗っかった形の一国二開催であることが明白です。そんなドイツも先程のサンマリノGPと同様に06年までという「シューマッハの引退」とちょうど重なっているのがまた分かりやすい。ちなみに97年と98年の2年間だけ、ニュルブルクリンクはご近所のルクセンブルクGPを名乗るも、シューマッハは優勝もチャンピオンも逃しています。またドイツの面白い点としては07年にニュルブルクリンクでのヨーロッパGPは行われましたが、肝心なドイツGPがありませんでした。近年になり有能なドライバーやチームが参戦しているというのに、肝心なGP開催が不安定というか不透明ですよね。母国の人達が可哀想です。

《日本》
 94年〜95年 パシフィックGP TI英田(岡山国際)
 94年〜95年 日本GP               鈴鹿

いよいよ日本の登場です。言うまでもなく皆さんよくご存知だと思います。まだ日本もF1人気があった頃、定着しつつある鈴鹿サーキットでの日本GPに対抗すべく、第二のGP開催を目指してゴルフ場を経営をしていたタナカインターナショナルが当時のFIA副会長であるバーニー・エクレストンに直談判して岡山県のTIサーキット英田でのF1開催にこぎつけています。さすがにヨーロッパGPのような便利な愛称が使えない日本は「太平洋」を意味する「パシフィック」を用いて94年に組み込まれました。
ヨーロッパがダメなら日本には「アジアGP」がちょうどいいのでは、と思いますよね。アジアGPは93年にメキシコGPの代替としてオートポリス(大分県)で使用する予定でした。しかし前年92年にサーキット所有する日本オートポリス自体が倒産して開催できなかったという「いわく」が付いています。
アジアの呼び名を避け、パシフィックを用いて始動したわけですが、2回目の95年は開催前に阪神・淡路大震災が発生。急遽日本GPの前に差し込み「日本二週連続開催」で事なきを得たものの、翌96年は予定通り春開催を望むFIAと、鈴鹿と連ねた秋開催を望んだサーキット側の意見が合わず、そのまま消滅する形となりました。

《スペイン》
 94年,97年 スペインGP     カタロニア
 94年,97年 ヨーロッパGP ヘレス

最後はつい最近まで一国二開催を行ってきたスペインです。その初めはヨーロッパ諸国では最も遅い94年にヘレスでヨーロッパGPを開催しています。ヘレスも古くはスペインGPの舞台として度々使用されてきたサーキットです。ただ90年代に入った頃にオリンピックを控えたバルセロナにカタロニアサーキットを新設したことでスペインGPの座を奪われました。以前にこのブログで振り返ったことのあるヨーロッパGPで2回目の97年は珍事がありました。マクラーレンのハッキネンが自身初となる優勝で表彰式を迎えた際、本来はメルセデス会長がプレゼンターだったにも関わらず、急遽地元の市長が割って入ったことでFIA側が激怒し「今後ヘレスでF1は行わない」という事件が起きてしまいました。実際にこの97年以降、ヨーロッパGPを含めヘレスではF1は行われていません。

 08年〜12年 スペインGP     カタロニア
 08年〜12年 ヨーロッパGP ヴァレンシア市街地

ヘレスでの珍事から9年後の08年から新設のヴァレンシア市街地を使ったヨーロッパGPが復活開催されました。スペインは他の主要ヨーロッパ諸国に比べ、輩出ドライバーは少なく、またチームも無いためF1の人気や貢献度はどちらかというと低め。そんなスペインを二開催するまでに引き上げたのは何だったのか。スペイン人初のチャンピオンを獲得したアロンソの存在と活躍に尽きます。サーキットはヘルマン・ティルケ監修で倉庫や港を取り囲む公道を周回するレイアウトを採用。コントロールラインから最も遠く、海にせり出した区間は可動橋となっており、普段は船が航行する水路をなし、サーキット使用時は橋になるという工夫が施されました。アロンソがチャンピオンを獲得した翌々年08年からフェラーリに移籍してもなかなかチャンピオンを獲れないでいる12年までの5年間でスペインGPとの二開催を実現しますが、もう少し粘ってくれたら、アロンソはどうにかなったかも?!(笑)このヴァレンシアでの二開催終了が現時点での最後の開催となります(ヨーロッパGPという名は16年のバクー市街地で復活)

IMG_3093
以上、今まで70年の歴史において一国二開催以上の開催例は64例129戦ありました。いずれも人気ドライバー出現や国における力の入れ具合により実現されたものとなります。近年は新規開催の計画や噂が出つつもなかなか合意に至らない例、そして既存のサーキットやGP自体がコストなどの問題により開催できないケースすら出てきています。F1は莫大なコストがかかるモータースポーツです。さらにF1時代の人気や集客を考えると、一国二開催は勢いがあった頃の「過去の輝かしい栄光」ということで今後は一部の地域を除き廃れてしまう可能性が高いと思われます。ただ冒頭にも書いたように、今シーズンは新型コロナウィルスの影響で国々によって状況や解釈が異なり、開催に前向きな所や否定的な所と様々あります。もしかしたら例外的に一国二開催が行われるかもしれません。今後の判断や決定が気になるところです。