前回はフーゲンホルツの略歴と手がけたサーキットについてみてきました。今回はその中でも「日本との関わり」についてクローズアップしていきます。

《鈴鹿サーキット建設計画の変遷》
IMG_3020
世界から一歩遅れた形となった日本も戦後は高度成長期に突入し、自動車やバイクなどの輸送機器の発達や需要も加速していきました。本田技研工業は現存する自動車メーカーの中では後釜であり、その頃はまだバイクをメインとしていました。1959年に参戦した「マン島TTレース」を皮切りに本田技研工業の創始者、本田宗一郎は「国内に本格的なサーキットを建設したい」という野望を抱くようになります。

建設地の条件には
 ・大都市から遠く離れていないこと
 ・コース設計に適した自然環境があること
 ・近隣住民との折衝が円滑に行えること

が掲げられ、いくつかの候補地が選定されました。候補に挙がったのは水戸(茨城県)、既にダートコースが設営されていた浅間(群馬県)、ライバルのヤマハも近くホンダの技術研究所も近い浜松(静岡県)、亀山とスーパーカブの生産工場を建てたばかりの鈴鹿(三重県)、そして亀山から峠を越えたお隣の土山(滋賀県)の6つでした。
そこから「亀山」「鈴鹿」「土山」の3箇所に絞られます。亀山は既に宅地化されている地区の用地取得が必要であること。土山は国道や鉄道などの交通の便に難があるため却下。そこで起伏と平地を兼ね備えつつ工場建設で地域と良好な関係を築けていたことから、鈴鹿で決定したと言われています。60年(昭和35年)1月に描かれた鈴鹿レーシングコース建設計画にはこのようなレイアウトでした。IMG_3018
鈴鹿という名は同じですが、現在の形からは想像できないレイアウトです。それもこれは現在の位置から少し離れています。
IMG_3019
冒頭の図の倍の縮尺にするとおさまります。今よりも東側にあたる、今でいう国道23号バイパス寄りを予定していました。浄土池を周回し、アウトバーンを思わせる上下別の長く並行したストレートで構成されています。水田のある平坦なエリアでこのような計画を立てますが、本田宗一郎から「米を粗末に扱うな」との喝が飛び、以降西側の松林を造成し、度重なる検討が行われることとなります。以下のレイアウト変遷図は資料にもなっていますが、ただそれを流用するのでは芸が無いため、最近新設サーキットが無く、せっかくあっても開催されず、不要不急で手持ち無沙汰なミヤビマン・ティルケを久々に召集し、色分けのトレースをさせてみました。細かなRなどはわからないものの、イメージくらいは伝わると思います。

① 60年8月 塩崎定夫による原案(ピンク)
② 60年8月 ヨーロッパ視察後の修正案(赤色)IMG_3017
これが現地で計画された初期のレイアウトです。先程に比べると「鈴鹿感」はありますが、今でいうセクター1に強烈なインパクトがあります。鈴鹿サーキットの一番の特徴である本線立体交差が①では3箇所もあったんです。ちょっと見てみたかった気もしますが、当然ながら全長は延びます。西側のスプーンカーブも今と異なり鋭角ですね。これだときっと「スプーン」という愛称にはならなかったでしょう。
②は塩崎定夫、飯田佳孝、小川雄一郎の3人が本場ヨーロッパのサーキット(スパ、ホッケンハイム、ニュルブルク、アッセンなど)のレイアウト、施設、舗装などを目にし、調査した結果を反映したものです。セクター1の立体交差2箇所を無くし、クジラやヘビの頭のような線形に変えています。さすがに立体交差はやり過ぎかなと気付いたのでしょうか。こちらの方が今よりもパッシングポイントが多いようにも感じます。S字やデグナー、スプーンの原型となる線形がこのあたりから浮かび上がってきました。

③ 61年1月 フーゲンホルツによる助言案(黄色)
④ 61年5月 測量土木設計図(茶色)
IMG_3016
次のステップは③先日示した黄色のレイアウト、フーゲンホルツの鈴鹿現地調査を経て描かれたものです。ヘヤピンが東側に倒れて見えるのは気になさらずに(笑)ヨーロッパ視察時にオランダのカーディーラーの伝で紹介されたフーゲンホルツが新サーキット建設プロジェクトを快諾、遠い日本まで足を運んで頂きました。20日間の滞在と調査により、ココでフーゲンホルツのアイデアが鈴鹿サーキットに注入されるわけです。立体交差を廃止したセクター1をメインスタンドから遠避ける改良を施しています。理由は「メインスタンドがやかましくなり場内放送が聞こえなくなる」から。確かに。。それ以外の特徴としては①②もそうでしたがスプーン立ち上がりから第1コーナーまでとても滑らかな線形をしています。現代のF1なら間違いなく「直線扱い」ですね。フーゲンホルツのアイデアは第1デグナーの入りも減速を伴い、130R付近を軸に180°点対象なレイアウトにも見えます。
④は測量時に計画されたレイアウトです。第1コーナーと第2コーナーは今と異なる180°ターンのような綺麗な弧を描き、S字から逆バンク、ダンロップまでは現在に非常に似たものとなっています。一方でデグナーは一つのコーナーとなっており、スプーンは①のような北に張り出した形状、そして130Rと最終コーナーは現在に近く半径の小さなコーナーへと変化しています。

⑤ 62年1月 塩崎定夫による最終決定(緑色)
⑥ 20年4月 各種改良後の現在(青色)IMG_3015
⑤が当時の完成形といえるレイアウトです。ここまでくるとほぼ現在⑥に近いものとなりました。第1コーナーと第2コーナーはフーゲンホルツのアイデアが採用され、立体交差も今と同様に鋭角に交差しています。ちなみにデグナーとシケインは後から追加改良されて生まれたものです。
5003
このような経過を経て、鈴鹿サーキットのレイアウトが完成しました。一部線形変更がありますが、結果的にフーゲンホルツのアイデアに近いものが鈴鹿サーキットを作り上げたと言っていいと思います。まだ当時の日本には馴染みのなかったサーキット舗装についても、ヨーロッパ視察時に得た情報を日本鋪道(現 NIPPO)に提供し、様々な砕石サンプルから木曽川の砕石を選び抜いて採用するなど、日本の道路技術の発展にも貢献するプロジェクトとなりました。

《ホンダとの関わり》
鈴鹿サーキットの変遷が長くなりましたが、今回の主役も本当はフーゲンホルツです。1961年にホンダと出会い、来日までして鈴鹿サーキットの建設に携わったフーゲンホルツはその後も日本との関わりが続きます。64年にF1参戦を控えたホンダに対して、研究目的のクーパーのシャシーを手配したり、ザントフォールトサーキットを提供してテストやシェイクダウンの場を設けています。ホンダのチャレンジ精神はフーゲンホルツの協力があってなし得たのです。
IMG_3003

オランダGPは85年まで行われ、1年のブランクの後、87年から日本の鈴鹿サーキットでF1は行われています。自身が携わったサーキットがバトンの如く遠い日本に受け継がれ、戦いの舞台となったことをフーゲンホルツはどのようにみていたでしょうか。残念ながら95年にそれも自動車事故により他界し、20年に復活するザントフォールトでのオランダGPを見ることはできませんでした(もし生きていたとしたら106歳)自身が関わったホンダエンジンを搭載した地元の星フェルスタッペンの活躍を我々F1ファンと共に遠くから見守っていることでしょう。


にほんブログ村 車ブログ F1へ
にほんブログ村