コロナウイルスが世界的に蔓延するこの時期に偉大なF1ドライバーの訃報が入りました。F1の創成期を支え、多くの優勝を挙げたモスが4/12に亡くなりました。コロナウイルスによるものではありませんが、またF1の過去をよく知る貴重なドライバーがまた一人亡くなったことになります。残念ながら数字や記録以外で詳しく知りませんが、追悼を込めてここに記したいと思います。

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スターリング・モス
 1929年9月17日生まれ(イギリス)
 1951年HWMからデビュー F1在籍11年
 優勝16回        歴代17位
 表彰台24回       歴代42位タイ
 参戦数66戦         歴代116位タイ
 ポールポジション16回  歴代19位タイ
 ファステストラップ19回 歴代15位タイ
 チャンピオン0回
 ※戦績ランキングは2019年シーズンまで

 51年 HWM                   1回出走   予選14位 決勝8位
 52年 ERA他                 5回出走   予選9位  決勝R
 53年 クーパー他          4回出走   予選9位  決勝6位
 54年 マセラティ          6回出走   予選3位  決勝3位
 55年 メルセデス          6回出走   予選P.P.  決勝優勝
 56年 マセラティ          7回出走   予選P.P.  決勝優勝
 57年 ヴァンウォール   6回出走   予選P.P.  決勝優勝
 58年 ヴァンウォール 10回出走   予選P.P.  決勝優勝
 59年 クーパー他       8回出走    予選P.P.  決勝優勝
 60年 ロータス他       6回出走    予選P.P.  決勝優勝
 61年 ファーガソン      8回全出走 予選P.P.  決勝優勝

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11年のF1キャリアの中で決勝走行は66戦とさほど多くなく、フル参戦したのはキャリア最終年となる1961年シーズンのみでした。当時のF1はモスのみならずヨーロッパ系のドライバーはアメリカで行われるインディアナポリスGP(インディ500)に参戦しないドライバーが多いため、フル参戦しない傾向にありました。それでも16勝を挙げ、その数だけでみたら歴代17位に位置するトップドライバーとして充分な戦績を残した一人です。

以前に「無冠の帝王」と題した特集を組んだ時に作成したキャリアグラフを載せます。
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F1デビューはモスが21歳にあたる1951年の開幕戦スイスGPとなりますが、実はF1の初戦の前年開幕戦イギリスGPではF1の前座レースにて2位を獲得しており、若いながらもベテランに食らい付ける期待と資質を兼ね備えていることを明らかにしていました。
デビューは地元イギリスのHWM(ハーシャム・ウォルトン・モータース)という現アストンマーチン系のレーシング専門チームから1レース限定のスポット参戦となりました。翌52年もHWMで1レース、そして52年まてERA(イングリッシュ・レーシング・オートモービルズ)で3レースのスポット参戦するも、名門ワークスを駆るベテラン達になす術なく、クーパーに移籍した53年もイマイチ奮わず、入場圏外やリタイヤに終わるレースが続きます。
54年からファンジオと入れ替わる形でマセラティに移籍すると第3戦ベルギーGPは3位で初表彰台を獲得。翌55年はメルセデスに移籍し再びファンジオのチームメイトとして戦い、エイントリーでの第6戦イギリスGPではそのファンジオを従えて初ポールポジションから見事に初優勝を飾るなど、ポイントランキングで2位に浮上してようやくF1で開花し始めます。FullSizeRender
しかしF1から撤退を余儀なくされたメルセデスから古巣マセラティに籍を移したモスの56年は、2回の優勝含めた4回の表彰台登壇でチャンピオンを狙いますが、わずか3ポイントでまたもやファンジオが戴冠。57年はヴァンウォールに移籍し2回のポールポジションとシーズン後半のイギリス、ペスカーラ、イタリアで優勝するも時すでに遅し、またもやチャンピオンはファンジオの手に渡りました。
58年シーズンは3度もチャンピオンを奪ったファンジオは勢力を弱め、58年は3回のポールポジションに4勝を提げて、これでもかと挑んだモス「四度目の正直」は、たった1勝のフェラーリのホーソーンに1ポイントの差で敗れる。4年間で10勝、4年連続のランキング2位、まあ何とツイていないというか持っていないというか。ちなみに歴代16勝を挙げて歴代17位のモスより上は全員チャンピオンを獲得し、モスの一つ下の通算15勝のバトン、その下14勝のJ・ブラバムは3回のチャンピオンを獲得していますし、同じく14勝で並んだG・ヒルもE・フィッティパルディも複数回チャンピオンなわけで、これが「無冠の帝王」と長らく呼ばれた所以でした。時代のイタズラでしょうか。
59年は古巣のクーパー、60年からロータス(ファーガソン)と渡り歩き、毎年優勝は重ねたもののブラバムが台頭したことでランキングを3位に落とし、61年シーズンをもってF1を離れることとなります。以降は耐久レースに活躍の場を移そうとした矢先の62年に大クラッシュを起こして頭部を痛め、32歳の若さでレースの第一線から退くこととなりました。
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「運の無さ」以外にモスの特徴としてあげられるのは「市街地サーキットを得意としていた」点です。全16勝のうち、モンテカルロ市街地で3勝、ペスカーラ市街地、ポルト市街地、アイン・ディアブ、モンサントパークの1勝ずつの合計7勝が市街地サーキットでした。モス自身も市街地を走ることを好んでいたようです。またペスカーラやアイン・ディアブはたった一度キリのサーキットで優勝し、要所を押さえるあたりもレジェンドさを増しています。日本との関わりとして富士スピードウェイの基本レイアウトに関わったことも有名な話です。
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晩年は引退から復帰を果たしツーリングカー選手権に参戦したり、それら数々の活躍を讃えられ「ナイト」の称号が与えられたり、メルセデスではSLRの限定モデルで名が使われるなど、多くのモータースポーツに影響を与え、好評を得てきました。チャンピオンを獲るだけがF1ドライバーではない、それ以上に築いてきて多くの活躍と記録は今後も忘れられることなく語り継がれることと思います。心よりご冥福をお祈りします。

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