F1のチーム(コンストラクター)はワークス(自動車メーカー)とプライベーターと呼ばれる個人事業者や自動車業界でないものに大きく分かれます。
現在のワークス
フェラーリ
メルセデス
ロータス(2016年からルノー)
過去のワークスには、、
アルファロメオ
クーパー
ジャガー
トヨタ
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現在のワークス
フェラーリ
メルセデス
ロータス(2016年からルノー)
過去のワークスには、、
アルファロメオ
クーパー
ジャガー
トヨタ
ポルシェ
ホンダ
マセラッティ
BMW(ザウバー) など
自動車メーカーからの参戦は、メーカーの技術力の披露、市販車へのフィードバック(実際にはされていないものやその逆でF1には許されない技術や製品もありますが)であり、最たる目的は全世界で行われ多くの視聴者を前にした「広告」です。またメーカーでありながらマシンは作らなくても、ランボルギーニやヤマハといったエンジンのみを製造・販売することで参戦していたメーカーもあります。
一方プライベーターは自身で車を作る技術は持っていなくても、経験者を募ってチームを形成し、エンジンやシャシーをメーカーから買って参戦しています。目的は企業系ならばメーカー系と同様に「広告」であったり、個人事業者の場合は、、自己満?(失礼)いやレース参戦を生業としている方達になるのでしょうか。
現在のプライベーター
マクラーレン(最近はワークスとも)
ウィリアムズ(個人事業者)
レッドブル、トロ・ロッソ(飲料業界)
ザウバー(個人事業者)
過去のプライベーターには、、
アロウズ(個人事業者)
ザクスピード(個人事業者)
ジョーダン(個人事業者)
ティレル(個人事業者)
トールマン(個人事業者)
フットワーク(運送業界)
ベネトン(アパレル業界)
ミナルディ(個人事業者)
リジェ(個人事業者)
ローラ(繊維業界)
B・A・R(個人事業者)
BRM(個人事業者) など
傾向としてはどちらかというとワークスの方が技術力やスポンサーの有無などもあってかコンストラクターズチャンピオンを獲得することが多い気がします。とはいえ、プライベーターも奮闘し、近年ではレッドブルや老舗のウィリアムズなどプライベーターでもチャンピオンを獲得しているところもあります。
プライベーターにはチャンピオンを経験した元ドライバーも歴代に何名かいます。野球でよく使われる「名選手、名監督にあらず」という言葉がありますが、F1の世界は実際どうだったのでしょう。今回はレーサー時代の経歴と監督になってからの経歴をみてみたいと思います。
参戦数111(13年参戦)
優勝6回 表彰台24回
ポール8回 ファステストラップ11回
チャンピオン1回
→サーティース 参戦数118(9年参戦)
優勝0回 表彰台2回
ポール0回 ファステストラップ3回
チャンピオン0回
1970年にマクラーレンの型落ちマシンに自身の名を冠してスタート。翌年1971年からは3台で参戦し、ペイドライバーをも確保し活躍しましたが、資金繰りに苦しみ一時期はコンドームメーカーをスポンサーにつけたため、母国イギリスのF1中継が無くなる珍事もあったようです(笑)
日本人初のF1ドライバーである高原敬武が1976年の第16戦日本GPで乗ったのはサーティースのマシンでした。
グラハム・ヒル 参戦数175(18年参戦) 参戦数10(1年参戦)
優勝0回 表彰台0回
ポール0回 ファステストラップ0回
チャンピオン0回
デーモン・ヒルのパパ、グラハムのチームです。昔過ぎて現役を知りませんが、晩年にシャドウやローラからマシンを購入し、最後に自社製シャシーGH1で自らドライブするマシンを駆りました。しかし自社製デビューレース1975年の第4戦スペインGPでチームメイトのR・シュトメレンのクラッシュで観客4人を死亡させてしまいます。
翌年の1976年用マシンGH2をテストするためにフランスに自ら操縦する軽飛行機で向かった帰りゴルフ場に墜落し、ヒルとチームメイトのT・ブライズとともに命を落としてしまいます。我がチームと偉大なチャンピオンが結果を残す前に運命を共にしました。
エマーソン・フィッティパルディ 参戦数144(11年参戦)
優勝14回 表彰台35回
ポール6回 ファステストラップ6回
チャンピオン2回
→コパスカー・フィッティパルディ 参戦数104(8年参戦)
優勝0回 表彰台3回
ポール0回 ファステストラップ0回
チャンピオン0回
兄ウィルソンと弟エマーソンとで設立したチームです。実は参戦前からこの兄弟はカートや市販車を改造するビジネスもこなしていたとのこと。
序盤はコパスカーという名で1975年に兄ウィルソン自らドライブする形でデビューします。翌1976年から弟エマーソンにドライバーをスイッチ、入賞や表彰台はあったもののコパスカーが撤退してしまいます。1980年から名を冠したフィッティパルディに改称し、フェラーリをも上回る結果も出しました。が、翌年からの低迷で借金を多く抱えたまま撤退する形に。
ジャッキー・スチュワート 参戦数99回(9年参戦)
優勝27回 表彰台43回
ポール17回 ファステストラップ15回
チャンピオン3回
→スチュワート・グランプリ 参戦数49回(3年参戦)
優勝1回 表彰台5回
ポール1回 ファステストラップ0回
チャンピオン0回
歴代チャンピオンが自らのチームで参戦する者が多い中、近代のスチュワートは当初からオーナーとしての参戦でした。フォードのマシンを白でまとい、スチュワートのトレードマークでもあるタータンチェックの帯をかけ、デビューイヤーの1997年から表彰台を獲得するなど、幸先良いスタートでした。
歴代先輩達がなしえなかった勝利は参戦3年目のジョニー・ハーバートによってもたらされこともあってコンストラクターズ4位で終えるも、それが残念ながら最後の年。再びフォードに身を売り翌年からは緑のジャガーに化けました。もしフォードに売却しなければ、、もしかしたら名コンストラクターになったかならなかったかも?!
アラン・プロスト 参戦数202回(13年参戦)
優勝51回 表彰台106回
ポール33回 ファステストラップ41回
チャンピオン4回
→プロスト・グランプリ 参戦数83回(5年参戦)
優勝0回 表彰台3回
ポール0回 ファステストラップ0回
チャンピオン0回
現役時代にも何度かチームオーナー計画があったものの、実現したのは引退した後の1997年、リジェを買収し実現しました。フランス製のプジョーエンジンを搭載し、車体はフレンチブルー。ドライバーはオリビエ・パニスとフランス色満載でデビューの予定でしたが、初年度はプジョーを使うジョーダンから横槍が入り、初年度は無限ホンダエンジンと中野信治の組み合わせで参戦となります。
早く欲しい母国のプジョーエンジン。ミーティングはフランス語でかわされるなど無限ホンダとセットの中野信治は日本ブランドには非常に差別があったのは有名な話です。プジョーにこだわり、無限ホンダを手放すと成績も芳しくなく、以降プジョーも撤退、型落ちフェラーリエンジンを使用せざるをえなくなり、最後は破産。チャンピオン経験者最後の悲しい末路です。
〜オマケ〜 参戦数88回(5年参戦)
優勝0回 表彰台1回
ポール0回 ファステストラップ0回
チャンピオン0回
→スーパーアグリF1 参戦数39回(3年参戦)
優勝0回 表彰台0回
ポール0回 ファステストラップ0回
チャンピオン0回
名選手、と呼ぶにはそうそうたるメンバーの中で浮くかもしれませんが、日本を代表するチームオーナーでした。プロストのフランス色があれば亜久里の日本色もある。エンジンも日本、ドライバー2人も日本、タイヤも日本、そして経営者も日本と厳しい世界だと本人が一番理解しつつ、ガッツあるファイターだと誉めたいです。
シャシーはホンダからでなく、エンジンの大きさすら違う4年落ちのアロウズを改造し、お金も苦労しかき集め参戦の許可をもらい、1年目の2006年は悔しいシーズン。2年目にやっとエースドライバーの佐藤琢磨が2回の入賞で4ポイントを獲得しましたが、それを最後に翌2008年のシーズン序盤に撤退、破産しています。
ホンダ
マセラッティ
BMW(ザウバー) など
自動車メーカーからの参戦は、メーカーの技術力の披露、市販車へのフィードバック(実際にはされていないものやその逆でF1には許されない技術や製品もありますが)であり、最たる目的は全世界で行われ多くの視聴者を前にした「広告」です。またメーカーでありながらマシンは作らなくても、ランボルギーニやヤマハといったエンジンのみを製造・販売することで参戦していたメーカーもあります。
一方プライベーターは自身で車を作る技術は持っていなくても、経験者を募ってチームを形成し、エンジンやシャシーをメーカーから買って参戦しています。目的は企業系ならばメーカー系と同様に「広告」であったり、個人事業者の場合は、、自己満?(失礼)いやレース参戦を生業としている方達になるのでしょうか。
現在のプライベーター
マクラーレン(最近はワークスとも)
ウィリアムズ(個人事業者)
レッドブル、トロ・ロッソ(飲料業界)
ザウバー(個人事業者)
過去のプライベーターには、、
アロウズ(個人事業者)
ザクスピード(個人事業者)
ジョーダン(個人事業者)
ティレル(個人事業者)
トールマン(個人事業者)
フットワーク(運送業界)
ベネトン(アパレル業界)
ミナルディ(個人事業者)
リジェ(個人事業者)
ローラ(繊維業界)
B・A・R(個人事業者)
BRM(個人事業者) など
傾向としてはどちらかというとワークスの方が技術力やスポンサーの有無などもあってかコンストラクターズチャンピオンを獲得することが多い気がします。とはいえ、プライベーターも奮闘し、近年ではレッドブルや老舗のウィリアムズなどプライベーターでもチャンピオンを獲得しているところもあります。
プライベーターにはチャンピオンを経験した元ドライバーも歴代に何名かいます。野球でよく使われる「名選手、名監督にあらず」という言葉がありますが、F1の世界は実際どうだったのでしょう。今回はレーサー時代の経歴と監督になってからの経歴をみてみたいと思います。
ジョン・サーティース
優勝6回 表彰台24回
ポール8回 ファステストラップ11回
チャンピオン1回
優勝0回 表彰台2回
ポール0回 ファステストラップ3回
チャンピオン0回
日本人初のF1ドライバーである高原敬武が1976年の第16戦日本GPで乗ったのはサーティースのマシンでした。
グラハム・ヒル
優勝14回 表彰台36回
ポール13回 ファステストラップ10回
チャンピオン2回
→エンバシー・ヒル
ポール13回 ファステストラップ10回
チャンピオン2回
優勝0回 表彰台0回
ポール0回 ファステストラップ0回
チャンピオン0回
翌年の1976年用マシンGH2をテストするためにフランスに自ら操縦する軽飛行機で向かった帰りゴルフ場に墜落し、ヒルとチームメイトのT・ブライズとともに命を落としてしまいます。我がチームと偉大なチャンピオンが結果を残す前に運命を共にしました。
エマーソン・フィッティパルディ
優勝14回 表彰台35回
ポール6回 ファステストラップ6回
チャンピオン2回
優勝0回 表彰台3回
ポール0回 ファステストラップ0回
チャンピオン0回
兄ウィルソンと弟エマーソンとで設立したチームです。実は参戦前からこの兄弟はカートや市販車を改造するビジネスもこなしていたとのこと。
序盤はコパスカーという名で1975年に兄ウィルソン自らドライブする形でデビューします。翌1976年から弟エマーソンにドライバーをスイッチ、入賞や表彰台はあったもののコパスカーが撤退してしまいます。1980年から名を冠したフィッティパルディに改称し、フェラーリをも上回る結果も出しました。が、翌年からの低迷で借金を多く抱えたまま撤退する形に。
ジャッキー・スチュワート
優勝27回 表彰台43回
ポール17回 ファステストラップ15回
チャンピオン3回
優勝1回 表彰台5回
ポール1回 ファステストラップ0回
チャンピオン0回
歴代先輩達がなしえなかった勝利は参戦3年目のジョニー・ハーバートによってもたらされこともあってコンストラクターズ4位で終えるも、それが残念ながら最後の年。再びフォードに身を売り翌年からは緑のジャガーに化けました。もしフォードに売却しなければ、、もしかしたら名コンストラクターになったかならなかったかも?!
アラン・プロスト
優勝51回 表彰台106回
ポール33回 ファステストラップ41回
チャンピオン4回
優勝0回 表彰台3回
ポール0回 ファステストラップ0回
チャンピオン0回
早く欲しい母国のプジョーエンジン。ミーティングはフランス語でかわされるなど無限ホンダとセットの中野信治は日本ブランドには非常に差別があったのは有名な話です。プジョーにこだわり、無限ホンダを手放すと成績も芳しくなく、以降プジョーも撤退、型落ちフェラーリエンジンを使用せざるをえなくなり、最後は破産。チャンピオン経験者最後の悲しい末路です。
〜オマケ〜
鈴木亜久里
優勝0回 表彰台1回
ポール0回 ファステストラップ0回
チャンピオン0回
優勝0回 表彰台0回
ポール0回 ファステストラップ0回
チャンピオン0回
シャシーはホンダからでなく、エンジンの大きさすら違う4年落ちのアロウズを改造し、お金も苦労しかき集め参戦の許可をもらい、1年目の2006年は悔しいシーズン。2年目にやっとエースドライバーの佐藤琢磨が2回の入賞で4ポイントを獲得しましたが、それを最後に翌2008年のシーズン序盤に撤退、破産しています。
こうしてみてみると、二世ドライバー同様に、師匠(オーナー)を超えるのは至難の業でいくら輝かしい経歴をもってしても、それを超える結果は困難であることがわかります。サー・フランク・ウィリアムズやエディ・ジョーダン、ペーター・ザウバーのような若手発掘にも貢献する名将もいる中「餅は餅屋」ということなのでしょうか。
ちょっとだけスチュワート・グランプリの行く末やメルセデスのご意見番として帯同する賢いニキ・ラウダあたりがオーナーをやるとどうなってるのかな、と想像してしまいました。
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